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平成ペイン6

 風呂上がりの清潔な体でまた雨の中に出ていかなければならないのは億劫だった。しかしこんなところで止まってもいられない。僕は先に進まなければならない。雨の中峠道を進み続ける間に僕の中ではますます懺悔のような感情が強くなっていった。僕は僕の家族についてもっと考えなければならない。ポンチョ型の雨合羽を着て赤いママチャリに跨ると、深呼吸して気合いを入れ直す。今日はとことん向き合ってやろう。

 妹に対する感情はなかなか説明しづらかった。彼女は僕の一つ下で、軽度の知的障害の認定を受けていたが、正直僕ら三兄弟のうちで一番まともに現実社会に向き合っている。子供の頃の僕は、勉強も運動も人より少しよくできた。運動会のかけっこでは六年生のとき以外ずっと一番速い組で一番だったし、サッカーの背番号は十番か十一番だった。中学生に上がって定期テストの順位が発表されるようになると、いつも一桁の順位を守っていた。そんな僕は妹のことをずっと引け目のように感じていた。できる限り接することのないように暮らしてきた。誰からも優しい優等生と思われていた僕は、自分の妹の世話だけはまったくしなかった。そしてそのことを上手に周りに隠していた。

 小学生、中学生の頃、僕はダウン症や知的障害を持つクラスメイトにとてもよく懐かれた。それは妹への罪悪感を紛らわせるためだったのだろうか。妹には何もしないくせに、彼らのためには甲斐甲斐しく世話を焼いた。しかしそれもうわべだけの行為だったのかも知れない。その証拠に、自由に組むことができる修学旅行の班などでは彼らと組むことを避けたのだから。そんな僕を非難する人がいなかったのは、僕の不幸の一つなのかもしれない。僕はこんなインチキな自分を誰かにぶち壊して欲しかったのかもしれない。

 しかしそれほど僕に興味を向けてくれる人間はいなかった。僕にはそれだけの価値もなかったのだろう。高校二年生の時、この世界と自分自身のインチキに堪えられなくなったあの日より前の自分が、何を考えどのように生きていたのか、今ではさっぱりわからない。僕という人格の連続性はあの三ヶ月間を境に途切れている。

 しかし自分の頭が割れたあの頃から僕はこの世界に生きる意味を見出せずにいた。いつも救いは生よりも死の中に見出されるような気がした。インチキの臭いはそこら中から日に日に強く漂ってくる。だから僕は多くのことに目を瞑った。この世界を限定し、自分の内に閉じこもるようになった。いつか誰かが救い出してくれるとでも思っていたのだろうか。

 妹の話だ。妹のことは、正直に言うとあまり記憶にない。彼女はいつも静かにそこにいた。普段は何を主張するわけでもない。けれど時折自分で見つけてきた何かをこちらに示すと、決して意志を曲げないようなところがあった。彼女はゲームが好きで、昔からいろんなゲームを買い与えられていた。僕はあまりゲームをしない。しかしゲームが嫌いなわけではなかった。けれど僕はそれらを上手に買ってもらうことができなかった。だから僕はいつも彼女のことを羨ましいと思っていた。妹の一番素晴らしい人間的特質は、自分のために物事を選択できるところだ。周りに何を思われようと、自分の意志を貫くことができる。周りに目ばかりを気にして、自分の望むものを何も手にできなかった幼い僕は、そのことを嘲りながら本当は強い嫉妬を覚えていたのだった。

 だから、僕は彼女に何かをしてあげたことがない。そのことに今気がついた。それはとても悲しいことだった。思い返すほど自分という人間の醜い面が増えていく。この先どれだけのことをすれば僕は自分の顔についた黒い油を拭うことができるのだろうか。それは途方も無いような気がした。僕は、独りでどこか遠くへ行った方がみんなのためなのではないだろうか。

 弟のことも僕はよくわからない。小さい頃はとても可愛がっていた記憶がある。小さい彼は僕によく懐いていた。しかし小学生高学年頃には嫌悪の対象になった。何故なら彼は僕が自分の内に隠し持っている汚い一面をさらけ出したような存在になったからだ。彼は僕によく似ていた。彼は周りに対する自身の嘲りを隠すことがなかった。そしてそんな態度をとることが許されるほど自分に能力があるわけではないということを知らなかった。与えられることが当たり前だと思っている。そして自分が何もできないということについては未だに気がついていないのだ。

 彼は特に両親に対してひどい軽蔑を抱いていた。何かにつけて両親の不理解、知識のなさや考えの浅さを馬鹿にしようとしたが、そんな弟の姿は僕にひどい羞恥心を抱かせる見るに耐えないものであった。実にどうでもいいことで揚げ足を取り、実に執念深く相手を攻撃する様は、自分の知能の低さを周りに向けて盛大にアピールしているのと同じであった。彼こそ「よそおい」の虜であったのだろう。自分を大きく見せるために相手を卑下する彼の手法は、高校生が掛け算のできない小学生を馬鹿にするような滑稽さがあった。他人の話を聞く耳も余裕も無く、それなのに彼の話すものはほとんどがネットでよく見る意見や偏見でしかなかった。その傾向は僕が大学に進学し家を出てから特に顕著になったと思う。今年の年始、久しぶりに帰省した僕は深夜に衝突する弟と両親の会話を襖越しに聞いていた。

「どういう意味?」

「なんでわからんの?」

「もう一度ちゃんと言ってみなさい」

 弟は大きなため息をつき、母のヒステリーについての嘲りを存分に披露したあとにこう続けた。

「だから、外食して金使う余裕があったらさ、僕に投資してよ」

「は?」

「そんな無駄にお金使うよりも子供の教育にお金使うのが親として当前だと思うけど」

 両親は絶句した。その頃、弟は入学した私立高校を辞めて家に引きこもり、独学で東京大学を目指すと言っていた。高校を辞める理由は「周りがアホばかりでレベルが低くて話が合わないから」などと言っていたが、受験勉強をしなかった彼が入れる高校はその私立高校くらいしかなかったのだが。僕は彼について考えるほど嫌悪感が増していく。それは前述した通り、彼の性格が僕に非常によく似ているからだ。僕がひた隠しにしていた汚い面を無防備に、むしろ誇らしげに見せられるのだからたまったものでは無い。

 両親は彼に憔悴しきっていた。あげく弟は抗がん剤治療を受け入退院を繰り返している祖母にまでこのような態度を取り、深夜に電話をかけて両親の愚痴を言い募り自分に対する援助を求めたらしい。

 僕は彼に対してある種の負い目がある。両親が彼のそのような傾向に困惑し始めていた頃、僕はすでに彼のことをよく理解していた。もちろんそれが僕の内に隠された感情によく似ていたからであるが、僕は僕自身のそんな姿を隠すために彼に対して理解を示すことを拒否した。それはもしかすると自分自身を裏切る行為だと言えたかも知れない。自分自身の一面を否定したのだから。そして僕は自分の罪を他人に着せ、そして自分でそれを断罪しようという態度をとったのだから、僕は弟よりも罪が深いのではないだろうか。

 どうして僕らは目の前のもので満足することができないのだろう。そこにすでにあるものを愛することができないのだろう。全てが連なりであることを理解せず、未来の夢ばかりに想いを馳せては今を罵倒し損なってしまうのであろうか。被害者ぶって不満を言い募るばかりで、この世界に自分が何も返すことができずにいることを棚上げしている僕ら。権利ばかり主張して義務や責任は無視し続ける。そして弟はそんな自分に気がつくことすらできずにいるのだ。それはとても悲しいことだった。それでも彼は僕よりも高等な人間だ。どんな人間であれ、生きようという意思がある限り、彼らは僕よりも良い人間である。

 自分独り苦しいようなことを言いながら、僕は身近で苦しむ家族のことを見て見ぬ振りし続けてきた。僕は知っていた。あの家は崩れかかっている。しかし僕には関係のないことだと、心のどこかでそう思っていたのではないか。それが僕の一番の罪であった。僕は自分独りで生きてきたようなふりをしている。今まで与えられてきたものを忘れてしまっている。自分独りで手一杯、他に何かを抱える余裕はないというようなことを言って、自らの義務を放棄している。

 だからと言って、僕に何ができる?この社会の頭を借りて考えれば、僕はまず大学へきちんと行くことから始めなければならない。そしてできるだけよい会社に就職して、少しずつ両親に今までの恩を返していく。弟の相談にも乗り、資金援助を申し出る。妹の話にも耳を傾け、その世界に理解を示す。そうやって良い兄として家族の一員としての義務を果たすべきなのだろう。

 馬鹿らしい。

 心臓に刺すような痛みが走った。ここまで育ててくれた両親に申し訳なかった。もしかすると、今死ぬべきなのかもしれない。僕は、家族のことなどどうでもよかった。僕は、僕だけが大切だった。僕はこれから先もずっと不満を抱え続けるだろう。何故なら僕の器はどんなものを注がれようと欲しいものは常に与えられていないと感じてしまうから。欲しいものなど自分では知りもしないのに。僕は人間のクズだった。そして、そのことを誇りに思う自分に気がついた。だから、家に帰っても僕は何もしないだろう。これから先も、ずっと。誰にも僕の邪魔をさせたくなかった。

 僕はきっと、何もできず無価値に死んでしまう。けれど、野垂れ死ぬその場所へたどり着くまで、誇りを持ってクズの人間を生きる方が、僕の心にとっては正しいのかもしれない。僕の小説にはきっと、僕以外に誰も出てきてくれないだろう。それは僕が他人を愛し心の中に招き入れることができないからではないだろうか。そしてその文章は僕自身を癒すためだけに書かれるだろう。この日感じた懺悔を繰り返しながら。何度でも。

平成ペイン5

 僕の悪徳の中で最もタチの悪いものは高校を三ヶ月間休んでいた頃に顕著に現れ始めた人間嫌いだろう。それ以後の僕はいつもどこか人間に対して嘲りと軽蔑を持っていたように思える。日ごとに人間のインチキが我慢ならなくなっていく。そしてそんな僕が一番嘲りを持って見つめているのはいつも自分自身であった。他人のことはどうにもならない。なので諦めがつく。しかし自分のことは変えることができると若い僕は未だに信じていた。しかし何も変わらず不機嫌でユーモアに欠けるこの僕という人間には我慢がならない思いをすることが多かった。もっとも生来の小心とそれなりに人の良さそうな外見のため人当たりはよく思われ、旅先で道を訊かれることも多い僕の不機嫌に気がつく者はそんなに多くはなかった。そしてそのことがまた他人を演じ続ける自分への嫌悪感を募らせる。

 自分とは何かという疑問に囚われ続け何もできない僕は、選択をするということをひどく恐れた。何かを選び取った時、選ばれなかった何かを失うことになる。僕はそこにあるものを一つに決めなければならないということに対して強い恐怖を抱いていた。人生とは選択することであるとまで言いきる人がいるというのに、僕はできうる限りそれを避けようとしていた。しかし選択しないということもまた一つの選択である。つまり僕の憧れる無責任で可能性に満ちた自由というものは未来にしかありえず、僕が生きてそこにたどり着いた時、僕は自由を選択することによって自由を殺すのだ。そういった無意識的な嫌悪感を抱えていたせいであろうか、僕は一つの場所に住み続けるということが苦手だった。ある日突然そこにいることが嫌でたまらなくなるのだ。そういうわけで福井県に移って来てから三回引越しをした。一年に一度の恒例行事のようなものだ。

 初めの住処は学校の寮であった。そこの利点は何より賃料の安さだ。月にわずか四千七百円。人間嫌いの僕はご想像通りここでの寮生活を心底嫌っていたが、後々考えると福井での生活の中で得られた恩恵の多くはこの寮に入らなければ得られなかった。つまり、僕はここで森さんと知り合うことができた。僕が彼を好きな理由は、彼がいつもユーモアを忘れない懐の広い人間であったからだ。僕の薄っぺらい憂鬱は彼と話せばいつもどうでもいいものとしてどこかへ片付けることができた。そして彼は僕のように自分の憂鬱を周りに対してさらけ出したりはしなかった。何より彼は僕の話を聞き流す術に長けていた。僕の言葉に引きずられ同じように感傷に浸ることがなく、現実的なユーモアで僕を批判して笑わせてくれた。

 次の年に住んだのは窓から大学が見える細長いアパートで、一階には猫雑貨の店が入っていた。僕は前年から恋猫というその雑貨屋の常連で、そのアパートの大家さんを紹介してくれたのも恋猫の店主だった。ちょっとした用事で店主が出かける時などは僕に店番を頼むような気のおけない仲で、大学から戻ってくるとだいたいまずここのカウンターでコーヒーを入れてもらって雑談した。しかしそこでの生活も一年ほどしか辛抱できなかった。潜在的な理由はいろいろとある。大学へ行くことが精神的に不可能に近くなっていったことで毎朝通学で賑わう大学前から離れたくなったことや、雪が降ると外に設置されている室外機が埋もれて一番寒い時に暖房が使えなくなること。スーパーが目の前なので家から出て散歩する理由も作りづらかったし、ちょっとした散歩で行くには足羽川まで少し距離があったこと。そして最後に背中を押したのはある日突然隣に住む大柄でイカツイ顔の男が勝手に扉を開けて意味のわからないことを怒鳴りながら意味のわからない難癖をつけてきたことだ。僕の部屋はワンルームで、鍵はいつも開いていた。これほど情報量の少ない怒りを浴びせられたのは初めてのことだったので僕はただただ戸惑うばかりで何も言うことができなかった。そのことがまた彼の怒りに油を注いだようで僕は生まれて初めて胸ぐらを掴まれるという経験をした。僕は喧嘩というものをしたことが一度もないのだ。ただの一度も。僕は喧嘩というものにある種の憧れを抱いていた。それは自分に何らかの誇りがある者にしかなし得ない行為であろう。僕には今まで自分のため、他人のために関わらずそういった衝動が胸に湧き上がった試しがなかった。結局恐怖と驚きばかりが募り何も理解できず何も言うことのできない僕に呆れたのか、彼は来た時と同じように勝手に扉を開けて帰っていった。そして怖気付いた僕は久しぶりに鍵を締めてから、しかもチェーンまでしっかりかけると、引越し先を探し始めた。今に至ってもあの日彼が何に怒り何を訴えていたのかさっぱりわからない。

 学校から離れたかったので、次に選んだ新居はアルバイト先の間海のすぐ近くを基準に選んだ。この頃の生活はバイトをしているか眠っているかのほとんどどちらかであった。自分自身の否定はこの世界の否定にまで広がっていたので、とにかく世界を避けるために眠ることくらいしか僕には思いつかなかった。そして深夜、足音を忍ばせてアパートの階段を降りると、足羽川沿いの石段に座って街灯に照らされ揺れる川面を見つめていた。今回の住処は足羽川にほど近い場所にあり、散歩に適した通りが周りに多かった。何を考えていたというわけではない。その暗闇に自分を溶け込ませようとしていたのだ。日中この世界を否定しておきながら、深夜にはこの世界に愛の慰めを求めていた。コンビニで買った缶ビールが世界と自分を溶け込ませる。僕はお酒が弱いから安上がりでありがたかった。物静かに何も言わず僕をそっとしておいてくれる暗闇は好ましい友人であった。そしてアパートに戻って来た時に吐き気がしなければ、ほんの少し物語を書いた。

 それは人間の幸せとは何かということを考え続ける一人の男の話であった。彼は自分の部屋で独り、幸福について考え続けた。身近な人の幸福から遠くの地に住んでいるはずの顔も名前も知らない誰かの幸福まで考え、そして最後になると自分の幸福について深く考えた。けれど何もわからなかった。そして彼はある日気がつくことになる。自分が幸福に過ごすことのできたはずの日々がもうほとんどなくなっていることに。そして自分の体がもうほとんど動かすことのできなくなっていることに。行きたい場所もやりたいことも山ほど考えついていた。しかしそれを為す能力と時間が無くなっていた。そして彼は独りだった。いつだって始められたことを、選択することを恐れいつまでも先延ばしにしていた彼は、真っ白な自分の歴史年表を見て、それを引き裂いた。

「幸せとは正しい選択の先にあるものではない。幸せとは、生きる意志の中に湧き出す泉のようなものだ」

 そして彼は選択の恐怖を受け入れ、生きることを始めようと思った。だから次の日、冷たくなった彼の顔には満足げな笑みが浮かんでいた。

 僕はそんな物語を書いて、だからなんだ、と思った。なるほど物語は世界を変えるきっかけにはなるのかもしれない。しかし実際に世界を変えるのは自分自身の行動なので、僕に必要なのは有無を言わせぬ現実的な実行力のある誰かの助けだった。しかしこんな僕を助けてくれる聖人なんて存在しなかった。僕はその救いを昔からずっと待ち続けていたので、そんなものはサンタクロースと同じくらいしかこの世界に存在しないということを知っていた。誰かに助けられたい人は、誰かに助けられるだけの何らかの価値を示さなければならないのではないか。僕にはそんなものなかった。どこにも行けず、何もできず、全て自分の責任だと諦めて、ゆっくりと、意志的に、その痛みを強く意識しながら、心臓にナイフを突き立てる。そんな妄想が僕の自己否定の自己陶酔をしばらくの間満足させるのであった。

 その日も万年床の上で天井を見つめて想像のナイフと虚構の痛みを楽しんでいたのだが、穴の空いた胸に広がる嫌悪感のあまりの強さに吐き気をもよおし、息をするために散歩へ出かけたくなった。そして明日からお盆休みでしばらくアルバイト先も店を閉めるので数日暇があることに気が付いた。時刻は深夜二時を少し回った頃だった。そういった時、僕は意外と衝動的なのだ。平成最後の夏、僕は黒い大きめのリュックを探し出し、必要最低限の下着と財布、あと本を数冊入れると、福井から三重の実家に向けて自転車を漕ぎ出したのだった。赤いママチャリが闇の中でひとり喘ぎながら前に進む。ライトは壊れていたので、夜回りの警察に捕まらないように祈った。福井の警察は暇なのかしょっちゅう真夜中に僕の自転車の防犯登録を確認するのだ。そろそろ顔を覚えてもらってもいいはずなのだが。

 どれぐらいの距離があるのかわからなかった。僕はあまり地理感覚が優れていない。しかし道を調べながら行くのも興ざめなので、道路標識を頼りに勘で進んで行くことにした。僕は昔から冒険に憧れていた。未知のものに飛び込みたかった。そんな自分を久しぶりに思い出した。小学生の頃、父に冒険という漢字について問いかけた記憶が蘇った。

「ぼうけんのけんって、木偏やっけ、こざと偏やっけ?」

「こざと偏やな。冒険は険しい道やからな」

「そっか、じゃあ冒険の冒の方はどう言う意味?」

 父は知らなかったので、僕は自分で辞書を引いてみた。冒という漢字には、むやみに突き進むというような意味があるようだった。また、上に覆いかぶさるという意味もあった。僕は考えてばかりで何もできずにいる自分にずっと苛立っていた。何も考えず、むやみに険しい道を突き進むことのできる情熱が欲しかった。自分を信じたかったのかもしれない。そしてこの堪えがたい世界の上に覆いかぶさってそれをコントロールしてやりたかった。自分の心が望む方へ舵をとる能力が欲しかった。

 だだっ広い田んぼ道をまっすぐ進む。太平洋側に住んでいた頃は、日の出は海からやって来た。日本海側では日の出は山からやって来る。山からの日の出はむやみやたらと主張しないところが好ましい。山に遮られつつ控えめにゆっくりとこの世界を起こしにかかる。太陽が顔を出し切る前に鳥や蝉たちが先に鳴き出す。宇宙色の空が静かに温かみを帯びていく。日本海側の朝は夜と仲良しなのだ。刺すような朝日ではなく、太陽は絵の具を滲ませるようにゆっくりと空の色を変えていく。素敵な朝だった。僕は頭が空っぽな女の子が言いそうな「素敵」なんてインチキな言葉が嫌いだったが、それは本当に素敵な朝だったんだ。

 大野市に入る頃には背負ったリュックが肩や腰にかける負担がかなりのものになってきた。中身はたいした重さではないはずなのに。物というものはおそらく常に自分の居場所を求めているのだろう。そして一度そこと決めるとその場所から離れないために根を張りその重さを増していくに違いない。僕は苛々したのでリュックを下ろして自転車の前カゴに突っ込んだ。それでしばらくは楽になった。リュックの肩掛けは汗で潮が吹いて白くなっていた。

 そうしてしばらく進んだところで僕は自分が本来向かおうと思っていた方角からかなり逸れていたことにようやく気がついた。自転車で山を超えて行くのはさすがに大変だと思ったので山の間を抜けていける滋賀方面のルートを考えていたのだが、目の前に続くのは岐阜県へ向かう峠道で、どこまで続くかわからない坂がそびえていた。そしてあろうことか雨が降り始めたのだった。僕は家を出る前に天気予報すら確認していなかった。美しい紫の日の出まで見ていたので今の今まで天候の心配などしたことがなかった。

 坂の始まる手前にうまいことコンビニがあったので、僕はそこでポンチョ型の雨合羽を買った。そしてせっかくカゴに居場所を据えたリュックを濡れないようにもう一度背負ってからそれを着込んだ。その峠道がどれぐらい続くのか調べるのはやめておいた。

 峠道で一番怖かったのはトンネル内でトラックに追い抜かれる時だった。路肩が狭いので振り返る余裕もなく、トンネル内で反響するトラックの走行音が近づいてくるのは死の恐怖を伴うものであった。またトンネルの出口で突然上部から草が垂れてきて驚き、もう少しで隣を追い越そうとする車の前にバランスを崩して倒れかけそうにもなった。雨脚はそれほど強くはならないがしとしとと降り続け苛立ちを募らせた。雨に濡れた白線がタイヤを滑らせることも何度かあった。しかし雨よりも僕が敵視したものは風だった。坂道と力を合わせた風にはもうどうしようもなかった。ペダルを漕げども一向に進まない。もはや歩いている方が安全で早いと感じるまで僕はなんとか自転車の上で頑張ったのだが、とうとう体がいうことをきかなくなってしまった。

 雨に打たれ風に吹かれ進んでいるのかもわからない道を右へ左へ上り降りしている間、僕の胸に押し寄せてきたのは罪悪感であった。その苦行は僕にとって懺悔のような感情を引き起こした。僕が今帰ろうとしている家に対して、僕が今まで与えられたものはどれだけあったのだろうか。僕は両親に愛されていた。しかし僕は彼らが僕を愛するほど彼らのことを愛していたのだろうか。理解されないという思いを募らせ、大切なことは語らず、一種の軽蔑をすら持っていなかっただろうか。僕はいつも僕が与えられるほどに誰かに対して何かを与えることができずにいた。小説を書きたいという願いはおそらくそんな自分を理解してもらいたい、もっと他人に歩み寄りたいという思いに端を発しているのではないか。僕は空を見上げるのが好きだ。海や山を見つめるのが好きだった。足羽川のほとりで川面を見つめ何時間もじっと座っていることができた。しかし両親のそばでじっと座り、何かを話すことは僕にとってどこか気詰まりで、何か他に用事がないか終始探しているような気がした。僕は彼らに何かを知られることを恐れ、僕に対して何らかの対価を求められることを恐れていたように思う。頭では理解している。僕の両親は愛の見返りを求めるような人たちではない。しかし僕の心がどうしても罪悪感を覚えずにおられないのだ。僕は彼らに対して何らかの報いを返さなければならないと。愛されるということは、僕にとって、何かを求められるということによく似ていた。愛には責任が伴うものだという考えを捨てられなかった。僕は愛というものについては赤子から何も成長していないのだ。いや、むしろ偏見を持たない子供時代の方がそれをより深く理解していたように思われる。

 そして僕は今、初めてあることに気がつき、胸に深い痛みを覚えた。つまり、僕は母のことも父のこともほとんど何も知らないということだ。彼らにどのような物語があり、どのような歴史があるのか、その足跡をほとんど知らないばかりか、今まで何の関心も示したことがなかったのである。そして、僕は彼らが僕に与えてくれた様々な恩恵を、ほとんど思い浮かべることができないでいるのだ。愛も感謝も、僕という人間の中ではただの言葉でしかなく、中身のない入れ物に過ぎないのではないか。自分の頬を流れるのは雨の雫なのか、それとも涙なのか、僕にはもうわからなくなっていた。風は勢いを増し、雨は斜めに吹き付ける。顔を上げることも困難で、道の先を探ってもほとんど何も見えなかった。しかしもう引き返すこともできず、どこまで続くとも知れない道をひたすら歩き続けるよりほかなかった。

 考えようによってはこんな時でさえ、僕の両親は僕を助けてくれた。彼らへの想いに浸るうちは無心に足を進めることができ、雨の寒さが体に染み込むこともなかったのだから。僕は風雨にさらされながらできる限り彼らのことを考えようと努めた。

 父は不平を言わない行動的な人間だった。どんなささいなことで母に叱られようと最後には自分が意見を引いて非を認め謝ることができた。そうやって家庭生活というものを守っていた。彼は朗らかでよく話しよく酒を飲んだが、母の忠告に逆らうことはなかった。何度か酒で失敗することもあったが、その何度かを槍玉に挙げられいつまでも責められるほどしょっちゅうというわけではなかった。しかし彼はそのことをいつまでも母に責められることを受け入れなければならなかった。また、彼は母からあまり賢いとは思われていないが、僕は彼の賢さを知っている。彼は僕や妹、弟に対して、みんなが周知のこと、言わなくてもいいことを母から最後に言わされる役目を負うことがしばしばあった。言わなくてもわかっているが、どうしても言わないといけないことは家族の間ではしばしば発生する。そしてそれはいつも諍いの種になり、僕らは反発し合うことになる。世の中の当たり前に照らしてどうしても言わなければならないこと。そんなにつまらない話はない。そしてそれを言われることは子供にとって親が自分を理解していないということを強く感じる瞬間として記憶され、思春期にはそれが原因で両者の間には深い溝ができる。つまり、子供に対して「現実を見ろ」と言う時のことだ。子供というのはいつまでもこの世界に夢を見ているし、自分が選ばれた特別な人間だというおとぎ話から覚めたくないものである。僕の父はそのことをよく理解している。子供の心をまだどこかにしまってあるのかもしれない。それが僕が彼のことを人間的に尊いと感じる所以だ。彼は本質的に人間らしく、そして社会的にも人間らしい。知り合いが多く、自分の世界で足ることを知っている。自分の不満を自分で抱えることのできる強さがあり、母の不満を受け止めるだけの忍耐もある。僕はずっと彼がいつか爆発してしまうのではないかと怖かった。それほど見るに耐えない状態が僕の家庭では起こり得た。そして僕はずっとそれに対して見てみないふりをし続けている。しかし彼はよくやっている。家の外で彼がどのように仕事をしてどのように人々と関わっているのかは知らないが、父は心の平衡を崩しきることはなく、僕らの家庭を守り続けていた。

 母はあらゆる責任を自分の親に押し付けているように思われた。詳細な話は聞いたことがないが、学生時代までの生活に対して激しい嫌悪を抱えていることはうかがい知れた。彼女はまるでシェルターのようなところで制限された生活を送っていたような話をした。だから僕が享受する自由に対して何度も憧れを恨み節で語ったものだ。母の根底にはいつまでもそこで失われた何かに対する郷愁が根付いているのであった。

 母親というものは子供への愛についてある種の宗教を持っている。彼女は特にこの宗教の熱心な信者であり、教育法や幸福についての本を多く読んでいた。しかしそういった一般性のある理論がむしろブラインドとなって、目の前の子供の理解に手こずる場合が多い。僕は母のことがよくわからない。個人として何を望んでいるのかがさっぱり感じ取れない。どこかで聞いた話にばかり憧れ、自分の物語を書くことにはあまり興味がないように見えた。そしてそのことを強く気にしている。子供時代に奪われた普通の自由に対する恨みをまだ心の中に抱えているのかも知れない。母の夢は結婚して家を出て子供を産むことだった。そしてそれはもう叶ってしまった。しかし人は生き続けないといけない。そのことに戸惑っているのかもしれない。彼女は自分のできることを小さく見積もり過ぎている。いろんなことにチャレンジしようと、人生を積極的に生きようという努力は何度も見てきたが、いつもどこか情熱に欠けるのが見て取れた。本当にやりたいことが何なのかわからないというような。

 母は父に対してあたりがきつい。それは彼女の唯一の甘えなのだろう。母は僕にとても甘い。僕を理解しようと努めている。しかし僕たちはきっと理解し合えないだろう。僕は母に似ている。そして母は自分自身を理解していない。僕も自分自身を理解していない。何もわからない者どうしがお互いを理解し合えるとは思えない。おそらく僕たちはお互いに人間というものがわかっていない。人間の一番可哀想なところは、各人が自分特有の本質というものを知らないくせに、一個の人格、はっきりした人物の「よそおい」を要求されることであろう。そして大多数の人々にとって重要なのはこの「よそおい」の方であるのだ。おそらくそんなことをヘッセが書いていたと思う。きっとこの「よそおい」こそが現実の人生において実際的で有用なのであろうことは僕にもよくわかった。そして夢見がちな子供で実際的ではない僕は、そんなインチキくさい現実というものを軽蔑しているので、いつまでも本質的な愛にはたどり着けないし、この世界で何者にもなることができないのだろう。僕と母はお互いにこの「よそおい」のせいで本来の自分というものを見失ったと感じているのだと思う。そして母は新しい家族への愛という形でそれを取り戻そうとしたのだろう。しかしそれも彼女が子供時代に作り上げたある種の「よそおい」を追いかけているに過ぎないのかもしれない。本質的な個人というものは本当に存在するのだろうか。それは結局僕らの幻想でしかないのかも知れない。人間というものは大した生物ではなく、結局社会という偉大なものの中で考えるくらいしかできないのかもしれない。そこら中の人に今やりたいことを尋ねたとする。いろんな答えが出てくるだろう。しかしそこで、この社会というものが消え去って世界で独りきりになったという仮定でもう一度同じ質問を投げかけてみる。すると、彼らは何を答えられるだろうか。社会というものがなければ、僕らは動物的に生きること以外に何も思いつかないのではないか?

 僕はいつか両親を幸せにしたいと思っているが、その能力が備わるまでにはきっと多くの犠牲と不理解を強いることになるだろうということはひしひしと感じていた。愛と理解は別物だからだ。愛することに理解は必要ない。しかし理解されない孤独を愛で癒すことはできない。理解される必要はない、と自信過剰の偉大な人は言うかも知れない。けれど僕は自尊心が低く、誰かに受け入れられなければ自分の心の声すら疑ってしまうような弱い人間なのであった。

 気がつくと足が止まっていた。そして顔を上げると「九頭龍温泉」という看板が見えた。薄暗い建物だった。しかし窓には光が見えたので営業していることがわかった。雨があまりにも冷たいということに突然意識された。しばらく体を温める必要があった。

「いらっしゃいませ」

「すみません、温泉だけの利用ってできますか?」

「大丈夫ですよ。今すぐタオルをご用意しますね」

 感じの良い男の人がずぶ濡れの僕を丁寧に案内してくれた。雨合羽とリュックは邪魔にならないところに預かってもらえた。当たり前だがタオルは有料だった。それは仕方のないことだ。とにかく僕は体も心も疲れ果て、冷え切っていた。湯に浸かると、全身に力が入りっぱなしだったことに初めて気がついた。心地よい痛みとともに筋肉はゆっくりとほぐれ、震えながら温もりがゆっくりと体に染み込んでいった。

 僕は何のために生きているのだろう。自死の誘惑は高校生の頃から僕を魅了していた。ヘッセが「荒野のおおかみ」に書いた自殺者の論文が僕はとても気に入っている。しかし僕もヘルミーネがハリー・ハラーに言ったように、人生を思う存分ためしてみたが何も見つからなかった、というようなふりはできなかった。だから死ぬことよりも必死に生きることを考えるべきだ。生き続けるというのなら生きる心配だけすればいいのだから。しかし僕は荒野のおおかみのように教養に富んでいるわけでもなく、崇高な精神を持っているわけでもなかった。なので余計に惨めだ。自殺者の喜びと入り混じった苦しみを享受する資格すらないのかもしれない。僕が死という非常口にまだ駆け込まないのは、その資格を得るにはもっと生きて学ぶ必要があると感じているからに過ぎない。僕は自分で生み出している苦しみ以外の苦しみをこの世界から受けてきたわけではない。僕は今までずっとこの世界から甘やかされて生きてきた。この世界のために何かを為さなければならないような気がする。だから生きることは嫌気がさすのだ。僕は旅がしたい。この世界に存在する何もかもを味わいたい。ただそれだけなのに。僕はどこかに留まっていたくない。そして誰も僕をそこに留めておこうとはしていない。けれど僕はどこへも行けず、何も見ないまま時間を失い続けている。どうしてこんなことになってしまうのだろう。時代のせいなんかではない。これは僕の個人的な問題だ。時代はますます自由に対して優しくなっているはずだ。ようは個人に能力があるかどうかの話なのだろう。そして自由を求める精神とそれを為す能力は別々に育まれるものである。僕にできることは、できる限り嘘のない言葉を探すくらいであった。そうやって言葉を紡いでいくしか方法を知らなかった。しかし言葉にすることですでに多くのことを損なっているので、僕はいつまでも僕らが「本質」などと呼んでいるようなものにはたどり着けないだろう。被造物の言いがたき嘆きってやつ。それでも僕はそれをやり続けなければならない。なぜ?そんなものは知らない。

平成ペイン3

 僕が新入生として福井に引っ越して来た春。足羽川沿いの桜並木を眺めながら、その時の僕もどうしてこんなところにいるのだろうと考えていた。風はまだ少し冷たい。曇り空の下で少し強い風が桜の枝を揺らし、花びらが無造作に撒き散らされていた。それでも多くの人にとってその光景はもう少し好意的に捉えられたのだろう、春の訪れに柔らかい笑みを浮かべる家族や恋人が多く目にとまった。

「撮りましょうか?」

 川沿いの小道をトンネル状に覆っている桜の下で、正しく歳を重ねてきたのがにじみ出ている温和そうな老夫婦に声をかけた。型の古いデジタルカメラのストラップを首から外し「すみませんお願いできますか?」と老紳士は微笑んだ。フィルターを除くと角度的にあまり咲き誇る桜が入らなかったので、下から下からと構図を求めるうちに這いつくばるようにしてシャッターを切った。そんな僕を見て二人は笑った。

「いやあ、ありがとうございました」

「いえ、なんかすみません、つい」

「いえいえ、素敵な写真をどうも」

 膝についた砂と花びらを払って僕らは握手した。

 きっとそこまで求めていなかっただろう。自分の望みすらわからないのだ、他人の望みなどわかるはずがない。しかし自分が何を望み何を求めているのかわからなくとも、今いるその場所は自分の足でたどり着いた場所であるのだし。それなのに僕は昔からいつどこにいたって不満ばかり感じていたように思う。

 被害者意識。それが僕の一番の問題なのかもしれない。いや、おそらくそれは僕だけではなく、僕らの世代の多くの日本人が陥っている問題ではないだろうか。誰かから何かを与えられることを当たり前に感じているような勘違い。あまり深く考えなくてもきっと誰かが救ってくれる。そんな甘い考えで生きてきた、生きていくことができた、そんな僕たち。自由を欲するふりをして、本当はそれが一番怖い僕たち。生きることに対して何の熱量もなく、ただ漠然と、同じように、無意味に、無価値に。それがあたりまえだから。あたりまえこそ正義。

 救われたい。昔からずっと無意識にそう思っていた。何から?わからない。どこへ行きたいのか、どうなりたいのか。そんな具体的なものはありもしないのに。

 福井大学へやって来たのは、そこがあまり勉強せず入れるところだったから。大学で何かを研究したいと具体的に考えていたわけではない。工学部知能システム工学科というよくわからない漠然とした学科を選んだ理由は、確かダイハードを見てハッカーに憧れたからだろう。しかしそれなら情報メディア学科というものもあった。それなのに知能システム工学科を選んだのは、脳の話を聞けるといいなとなんとなく思っていたからだ。この学科では情報工学に加えて機械工学、さらには脳などの生物的な講義も受けることができた。大雑把に言うとロボットを作ろうよって感じの学科。受験勉強の息抜きで読んだ「われはロボット」や「アンドロイドは電気羊の夢を見るのか」といったSF小説が強く影響したのだろう。芯がないのでその時目の前にあったものに染まってふわふわと足を運んでしまう。だから大抵長続きしないし、何も蓄積されず何も成し遂げることができずにここまで来た。

 そもそもが言い訳の上に成り立っている人生なのだ。本当のことを言うと、僕は何もしたくない。受験生の時は勉強がしたくなかった。なので言い訳のためにある夢を立てた。それが小説家になるという荒唐無稽なことだ。そして大学選びは小説を書くための時間を作るためでいいのでどこでもいいなどと言ってのらりくらりと先生や親の説教をかわしてきた。だから今このような文章にわざわざ時間を割いて自己嫌悪を掘り返しながら必死に書いている。

 大学は想像していたよりも数段面白くなかった。もちろんそれは僕の取り組み方の問題だろう。同期と関わることもせず講義に出て出席カードに名前を書いたあとは小説を読みふけっていた。学生カードを読み取り機に通せばいい講義ではそれだけして帰ることもままあった。周りとの関わりに無関心だったのは入学した週にあった泊りがけのオリエンテーションが原因だ。

 学科の生徒全員でバス移動し、近くの温泉地に泊まった。相変わらず薄暗い曇り空の日だった。旅館も空模様に合わせるように古ぼけた冴えないビルだったが、それはそれで僻地の趣があり好ましかった。僕らは学籍番号で班分けされ、その班のメンバーでできることでベンチャーを起業するとしたら何をするかということを話し合って翌日発表するようだった。

 人見知りで人嫌いの僕だが、初めは何とか溶け込もうと努力もした。しかし彼らの考えることは、感覚すべてがゲームの世界に入れるようなフルダイブゲームを作るといったものや、人工知能で全自動のマンションを作るといった、どこかで聞いたことのあるアニメの世界のような話ばかりだった。

「うーん、それはなんか今回の問題と意図が違うんじゃないの?」

 正直ドン引きしながらそう言うと、驚いたことにみんながみんな「いやベンチャーってこういうことだよ」と真面目くさって言うので何も言えなくなってしまった。こいつらは一体何者なのだ、それぞれがいったいどんな資金と能力を持っているというのだ。もう考えるのもあほらしくなり、この時点で大学を辞めたいと強く思った。僕が何か素敵なアイデアを考え出して話を別のところへ持っていければよかったのだが、あいにく僕は僕が願うほど賢くも有能でもなかった。残念。

平成ペイン2

 僕は高校生まで太平洋側の地元三重県で暮らし、大学進学に伴い日本海側の福井県福井市に引っ越してきた。この地で夏を迎えるのは今年で三回目になる。太平洋側で暮らしてきた僕のイメージでは北陸といえば雪。冬こそ厳しいけれども夏は涼しく暮らせるのではないかと世間知らずに思っていたのだが、日本の夏の暑さはどこでもたいして変わらないみたいだと今のところ思い知らされている。違いといえば三重県にいた頃はほぼ毎年台風の影響を大きく受けていたが、こちらではそれほど大きな被害はないことか。その代わり福井の空はだいたいいつもどんよりとした曇り空で、今日はいい天気だと思って朝から気分良くしていると、お空は「油断したな」とほくそ笑みいたずらにゲリラ豪雨を食らわせてくる。

 森さんは二つ上の先輩で、一年生の始め大学の寮で同じ階に住んでいた頃から裸の付き合いをする仲だ。間海という割烹料理屋のバイトも森さんに紹介してもらってから今までずっと続けている。間海というのは「まがい」と濁って発音するらしい。由来はみんなからマスターと呼ばれる店主の苗字で、マスター曰く福井のある地域には多い苗字らしい。僕は中野という随分とありふれた苗字なので正直羨ましい。真という名前は、名が体を表すかどうかは別として、それなりに気に入っていたりするのだが、中野というのはあまりにも凡庸すぎはしないか。たとえば間海真ならば頭韻を踏んでいるし悪くない、と思ったのだが漢字で表記すると何か鏡文字のような違和感がある。おそらく左右対称の字で左向きの海が挟まれているのでおかしく感じるのだろう。左向きの海?それなら左という字は右を向いているように見えるし、漢字側から言ってという話になると右という字は左を向いていることになるではないか。結局世界は捉え方次第でどうとでも意味を変えるものなのだ。

 話は戻るが前述した小説「ハーモニー」で語られたユートピア的な啓発社会は結局僕が感じるような「気持ち悪さ」によって破滅へ向かった。そしてそれを感じる意識が存在する故に人は苦しむという考えから、脳内に侵入したナノマシンが全ての人から意識を奪い、無意識で生きることを実現した。そして人類はある種の恍惚感を伴う生を手に入れる。大雑把に言うとそんな物語。人はどこへ向かって生きているのか、僕の知りたい答えの一つがそこには記されていた。それが正しいのかどうかはわからない。そもそも正しいという言葉がどのような意味を持つのかすらわからない。誰にとって、どういう意味で、と定義づけをしないと議論はできないだろうし、同じ人間はいないのだから正しさの議論などはぶつけあっても意味を持たないだろう。しかし僕にとってそれはある意味では正しいような気がした。さらに言うと僕はそれに羨望さえ覚えた。

 考えるのは面倒だ。例えば、なぜ生きているのか。そんなことさっぱりわからない。ブルーハーツが「生まれたからには生きてやる」と歌っているのを僕は知っている。しかしその問いは消えないどころか僕を飲み込み動けなくすることがある。そんなこと考えたってどうしようもないとはわかっている。目の前のことに最善を尽くして今いる場所を少しでも良いものにしようと行動することしか僕らにはできない。僕らが生きることができるのは今だけだ。しかし「希望は過去にしかない」と誰かが言っていた。ではいつどこでどうやって生きればいいのだろう。

 考えるだけでは何も変えられない。僕はアインシュタインではない。平凡に達するか達しないかのボーダーラインに立つ、いくらでも代わりのきく社会の歯車になるべき平凡な大学生でしかない。そしてこの社会というものを支えているのはそんな未来の僕たちなのだろう。みんながみんなそんな社会というよくわからないものに生かされているのにそれのことを忌み嫌っているようなことを言う。そしてそれにすがり続けている。そんな矛盾した滑稽な姿を晒し続けていると、生きることがなんだか白けてきてしまう。社会から供給された電気の下で社会から供給された安全な水道水を飲みながらこんなことを書いているのだから僕が一番滑稽だ。そして今日も「世界はなぜあるのか?」などという本を買ってしまう。これがいわゆるモラトリアムというものなのだろうか。そんな小さな苦悩はありきたりでみんなが経験することでありお前は何ら特別ではないと証明するように、その本の冒頭にはこんな手紙の一文が引用されていた。

 すべてのことに理由と説明を見出そうとしないよう、あなたに本気で戒めます。すべてのことに理由を見出そうとするのは大変に危険で、何も功を奏しません。失望と不満が残るだけで、あなたの心は動揺し、最後には惨めな気持ちになります。

 結局わずか一頁めくっただけで揺らいでしまうような浅く低レベルの疑問でしかないのだ。しかしその疑問を引っ込めたからといってどう生きればいいのかわかるわけではない。自分が何を感じ何を求めているのかさっぱりわからない。みんなにはわかるのだろうか?みんなとは誰だ?自分以外の意識というものは本当に存在するのだろうか?そんなことを夜な夜な考え続けているうちに気がつけば日本海側で三回目の夏を迎えるにいたったわけ。その間に僕は何を学びどう生きてきたっけ?日本海は想像通りの荒波でサーフィンにはうってつけだが、僕はサーフィンをしない。スノーボードもしない。正直に言って、自分がなぜここにいるのかさっぱりわからなくなっていた。なのでそれを今一度思い出すために時間を巻き戻そう。今が七月だから、話は二年と三ヶ月ほど戻る。

まどろみの嫌悪

2018年12月28日

喉の渇きで目を覚ました。布団に包まったまま腕を伸ばし顔の横にあるはずのiPhoneを探す。画面の明るさに目をすがめた。時刻はまだ五時台を示していた。

もう少し眠れる。もう少し、もう少しと布団から出ることを先送りにしているうちに、いつも遅刻ぎりぎりの時間になってしまう。住み込みの仕事場で、布団から出て五分で支度してすぐ仕事に取りかかることができる。

だから今日も僕は寒そうな外の風の音を聞きながら何度も何度も夢とうつつを行ったり来たり。そういう時にみる夢は妙に現実めいていて、どこか息苦しくなる。というのも、僕はうつぶせに寝る癖があるので、そのせいではないかと思われる。

どんな夢を見ていたのかは覚えていない。それでもその時自分が感じていた胸苦しさだけは克明に残ってしまうのだから、毎日毎日寝起きはすこぶる悪い。自分の思っている自分自身の嫌な部分を僕の夢は明確なビジョンに変換して提示してくれる。なんともありがたいことだ。

無意識というものはいったい僕をどうしたいのだろうか。自分というものが存在するとして、この無意識というものも僕自身なのではないのか?なのにどうして自分を苦しめるような真似をするのだろうか、さっぱりわからない。

昨日の夢は覚えている。何か思わせぶりな態度で周囲の人に接し、いろんな思い切った決断を下していく僕自身の夢だった。そして夢の最後に僕はまわりにいる人たちに向けてまるで復讐を成し遂げるような気持ちで自分が白血病であることを告げる。

どうしてそんな夢を見たのだろう。意味深な夢を見た時僕は目が覚めてすぐにグーグルで夢占いのサイトを検索するのだが、そこには白血病の夢は「現実に耐えられず逃げ出したい気持ちを示している」と書かれていた。

僕の見る夢の診断結果はだいたいにおいて「現実から逃げ出したい」というようなことが書いてある。そしてそれはたいてい当たっている。自分で選んでそこに生きているはずなのに、僕はいつもその場所のことを嫌っていた。それは僕がいつもやるべきことをやらずに被害者意識を持って逃げ続けているせいだ。

僕はいったいどこへ行きたいのだろう。何がしたいのだろう。さっぱりわからない。

やりたいことはたくさんある。しかしそのどれもが心から願っていることなのかと問われれば、頷くことはできない。表面的な興味にすぎないようなことばかりだ。

そんな相談をすれば、たいていの人は「やってみればいい」とアドバイスをしてくれる。実際にやってみないとわからないじゃないかと。そんなことはわかっている。僕だって何かやりたいのだ。しかしその一歩目をどっちへどれだけ踏み出せばいいのかさっぱりわからない。振り上げた足を下ろす場所がわからずバランスを崩していつも転んでしまう。そして何もできないままここまできてしまった。

今年も残すところあと三日。僕はどう生き、何を変えることができたのだろうか。何もできていない。十年以上も停滞の日々を送っている。十年あれば世界は大きく変わる。十歳の小学生が成人するのだ。その間僕はいったい何をしたのだ?心に強く残る情景など一つも思い浮かばない。

あと三日。その間に何かを変えることができるだろうか。いや、そうやって、急速な変化を望むようなところがいけないのだろう。すぐに結果を欲しがる。必要なのは忍耐だ。コツコツと明確な意思を持って日々を積み重ねる忍耐。

けれど僕はどこへ向かって何を積み上げればいいのかさっぱりわからない。土台のないまま時間がこぼれ落ちていくのをただ嘆き続けていただけだ。

そういうのはもうやめたいのだが、しかし何をすればいいのだろう。どこへ行きたいのだろう。死にたいわけではない。ただ生きる方法がわからない。現実はそんなに深刻でドラマチックではない。わかっているのだが、そんな考えに囚われ続けている。

2019年にやること

2019年にやると決まっていることを記す。

まず1月10日締め切りの「アンデルセンのメルヘン大賞」に応募する。

次に1月末締め切りのアガサクリスティー賞に応募する。

 

そしてこれが本命となるのだが、3月末締め切りの新潮新人賞に応募する。

これをとりたい。今の所この賞に応募するための話は3つ構想があるが、まだどれも体をなしていない。自分がどれだけ本気で取り組もうとしているのかもはっきりとしない。

今この瞬間に本気で書かずにいつ書けるというのか。しかし考えは発散し、文章は途切れがちだ。何から始めればいいのか、どうすればプロとしてやっていけるレベルまで自分を持っていくことができるのかわからない。ただ書けばいいだけではないような気がしてきた。知識も考えも足りなさすぎる。

いや、時間はあるのだ。生きている限り。だから焦ることはないはずなのに、いつも何かに追われているような気がしていっぱいいっぱいになってしまう。そして書くことから逃げようとするのだ。

向き合わなければならない。

 

楽しいことを考えよう。

もしアンデルセンのメルヘン大賞を受賞できたらデンマーク旅行が付いてくる。パスポートは11月に取得済みだ。

落選しても、4月の長休みには海外旅行を計画している。タイへ行く予定だ。そこには大学時代からの友達がいて、彼の家に泊めてもらうことになっている。そしてタイ経由でミャンマーへひとり旅を決行し、チャイティーヨー・パゴダ、いわゆるゴールデンロックに金箔を貼り付けてくるのが目標だ。

僕はまだ日本を出たことがない。しかし僕は今、完全に自由だ。誰にも責任がない。だから僕は今こそ生きたいように生きるのだ。というわけで、2019年は旅人になる。決めた。

今旅行プランを練るためにいろんな人の旅ブログを巡回しているのだが、僕が想像していたよりもみんな自由に生きることを楽しんでいる。なら僕にもできるはずだ。

未知の世界への誓いを立てて、今日はこれくらいで終わりにします。おやすみなさい。