習作

平成ペイン8

平成ペイン8

 バイト帰り、足羽川沿いの石段に座って、僕らは缶ビールを飲んでいた。もうすぐ夏休みが終わる。九月も後半になると、夜は風が少し冷たく感じる。月がやけに明るく、空はしんと黙り込んでいた。音もなく雲が流れ、川のせせらぎが心を引き寄せようとする。意識が川に溶け込んでいく。

「川にはさ」

「魚がいる」

「いるとも。じゃなくて。川にはね、時間がないんだって」

「つまり?」

 森さんは残り少ないビールを何故か石段に流していた。よく見るとそこには蟻の行列がいた。

「つまり、川の源泉も、滝も、河口も、海も雲も山もどれも川として同時に存在してる。川には現在しかないわけだ。過去も未来もなく、ただ現在として全てがそこにある」

「俺の聖水も川になるから、俺も永遠ってことか」

「そう」

「せやろか?」

 僕はビールの残りを一気に飲み干した。胃が熱く震えるのを待って、話を続けた。

「時間っていうものは人間が作り上げた幻なんだってさ。だから過去も未来もなくて、それは全て現在の僕の中にある。未来を不安がる必要はない。僕らが目を向けるべきは、今目の前にあるものだけだって、本で読んだ」

「カルペディエムか」

「なんだっけそれ。メメントモリみたいな?」

「まあそんなもん。知らんけど」

 そういえば昔、足羽川沿いをずっと歩いてみたことを思い出した。夜だったから何も見えなかったが、川の声はずっとそばに寄り添ってくれていた。あの日はどうやって帰ったんだっけ。思い出せなかった。

「みんなちがってみんないいって詩あるじゃん、金子みすずの」

「それタイトルわたしと小鳥とすずと、とかじゃなかったっけ」

「そうだっけ。まあ、みんなあの詩好きじゃん」

「普通は」

「だけど、あれってむしろみんな同じになりたいって言ってる気がするんだよね」

「エヴァ的な?」

「それは知らんけど。結局みんな何かと比べてしか自分を認識できないんだよ。何か基準がないと。でももうみんなおんなじものだって考えちゃえば、誰も苦しむ必要がなくて、みんな満足。というか、何も感じなくなるのかな?どうなんだろう。何が言いたいかわかる?」

「わからん」

「僕も。でも、人間の進化って、みんな同じになることを目指してる気がするんだ。例えば頭にコンピュータを埋め込んで知識を共有できたりしたら、オリジナリティってなんだろってなっていくだろうし。で、ディストピア的に想像すると、メインコンピュータが一つあって、人間はその手足でしかないように何も考えず行動するだけの肉になってく。そしてそれが実は結構幸せなのかもしれない」

「まあ、わからんでもない」

「でも僕はそんなの嫌だね。気持ち悪い。だから、生物としての進化に対応できてないのは、何も考えてないような人たちより、こうやっていろいろ考えて立ち止まっちゃう僕みたいな人なのかもしれないなって思って」

「社会に馴染めないどころか生物的にも馴染めてないのか」

「森さんさ」

 僕の意識はアルコールで火照った体を川の中で冷やしていた。川になってどこかへ流れ、全てを見たいと思った。小さい頃の僕の夢はそういえば雲になることだった。手から空き缶が滑り落ちた。それは軽薄な音を立てて石段を転がっていく。

「酔ったか?さすがクソザコナメクジやな」

「森さんさ、ゆきちゃんのこと好きでしょ」

 森さんは立ち上がって空き缶を拾ってくれた。そしてゆっくりと確かめるような動作で僕の隣に座り直した。

「まあ、好きだな」

「付き合えば」

「彼氏おるやんけ」

「ゆきちゃんも森さんのこと好きだと思うよ」

 森さんは拾ってきた空き缶を僕の靴の上に立てた。僕はじっとその缶を見つめていた。たぶん、この缶を倒してしまったら、それはもう一度石段を転がり落ちていって、この話は終わりになるだろう。

「でもな、例えば、それで付き合ったとするやん?そしたら、俺と付き合っててもまた誰か他に好きな人ができるかもしれんってことやろ。前例を作ってしまったら、俺は信じられんくなると思うんや」

「女性不信?経験あるの?」

「それは言わない約束やろなんでそんなこというん?」

 笑った拍子に空き缶が倒れそうになったのでその前に僕はさっとそれを手に取った。

「傷つく価値はあるんじゃないの?」

「俺は俺が一番かわいいんや」

「これだから童貞は」

「童貞じゃありません素人童貞ですが?定期的にプロの指導を受けていますが?」

「定期的に?」

「そこは突っ込まんといて他人の性生活の話やから」

 立ち上がって伸びをした。倒れてもいいやって気分だったが、足元はしっかりしていた。森さんはまだ川面を見つめていた。

「僕は森さんのこと好きだよ」

 彼はぎょっとして僕を振り仰いだ。僕はその顔を見て吹き出しそうになった。

「もちろん友愛の方ね?」

「え、純愛?」

「ゆ、う、あ、い」

 帰るか、と言って僕らは歩き出した。別にゲームをしたいわけではなかったが、バイト後の義務なのでまた僕のアパートでサッカーゲームを三試合して、今日は僕が勝ち越した。それからアニメを眠気の限界まで見せられて、森さんを見送ると吸い寄せられるように布団で眠った。僕らはその日がいつもと違う特別な一日だということには気がつかない。一日だって同じ日はないというのに。毎日が愛すべき最後の瞬間だということを忘れる。そして、僕は旅に出た。大学は一応休学にして、アパートは引き払った。貯金を全額引き下ろして、ペンとノートを買って、楽しくなってきたので安いサングラスまで買ってやった。僕はどこに行っても良かった。

 愛とはなんだろう。幸福とは何だろう。僕は人を愛することのできない人間なのかもしれない。幸福に満足することのできない人間なのかもしれなかった。だからそれについての小説を書こうとするのかもしれない。しかしそれを知らない人がそのことを書くことなどできるのだろうか。自分が体験しなかったことについて書くことほど虚しく無意味なことはない。だからそれを書こうという意思があることが、それを知っている、体験したことがあるという証明であり、救いなのかもしれない。そしてそれでも僕がそれを知らないと感じてしまうのは、それを探し求めることで目に映るものを限定してしまうからではないか。それはきっと、ただ見出せばいいものなのだろう。それはどこかにではなく、どこにでもあるのだろう。心を開きそれを受け入れることさえできれば。けれど、結局僕には何もわからなかった。僕の頭はなんにも役に立たないのだ。

(了)

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