習作

平成ペイン6

平成ペイン6

 風呂上がりの清潔な体でまた雨の中に出ていかなければならないのは億劫だった。しかしこんなところで止まってもいられない。僕は先に進まなければならない。雨の中峠道を進み続ける間に僕の中ではますます懺悔のような感情が強くなっていった。僕は僕の家族についてもっと考えなければならない。ポンチョ型の雨合羽を着て赤いママチャリに跨ると、深呼吸して気合いを入れ直す。今日はとことん向き合ってやろう。

 妹に対する感情はなかなか説明しづらかった。彼女は僕の一つ下で、軽度の知的障害の認定を受けていたが、正直僕ら三兄弟のうちで一番まともに現実社会に向き合っている。子供の頃の僕は、勉強も運動も人より少しよくできた。運動会のかけっこでは六年生のとき以外ずっと一番速い組で一番だったし、サッカーの背番号は十番か十一番だった。中学生に上がって定期テストの順位が発表されるようになると、いつも一桁の順位を守っていた。そんな僕は妹のことをずっと引け目のように感じていた。できる限り接することのないように暮らしてきた。誰からも優しい優等生と思われていた僕は、自分の妹の世話だけはまったくしなかった。そしてそのことを上手に周りに隠していた。

 小学生、中学生の頃、僕はダウン症や知的障害を持つクラスメイトにとてもよく懐かれた。それは妹への罪悪感を紛らわせるためだったのだろうか。妹には何もしないくせに、彼らのためには甲斐甲斐しく世話を焼いた。しかしそれもうわべだけの行為だったのかも知れない。その証拠に、自由に組むことができる修学旅行の班などでは彼らと組むことを避けたのだから。そんな僕を非難する人がいなかったのは、僕の不幸の一つなのかもしれない。僕はこんなインチキな自分を誰かにぶち壊して欲しかったのかもしれない。

 しかしそれほど僕に興味を向けてくれる人間はいなかった。僕にはそれだけの価値もなかったのだろう。高校二年生の時、この世界と自分自身のインチキに堪えられなくなったあの日より前の自分が、何を考えどのように生きていたのか、今ではさっぱりわからない。僕という人格の連続性はあの三ヶ月間を境に途切れている。

 しかし自分の頭が割れたあの頃から僕はこの世界に生きる意味を見出せずにいた。いつも救いは生よりも死の中に見出されるような気がした。インチキの臭いはそこら中から日に日に強く漂ってくる。だから僕は多くのことに目を瞑った。この世界を限定し、自分の内に閉じこもるようになった。いつか誰かが救い出してくれるとでも思っていたのだろうか。

 妹の話だ。妹のことは、正直に言うとあまり記憶にない。彼女はいつも静かにそこにいた。普段は何を主張するわけでもない。けれど時折自分で見つけてきた何かをこちらに示すと、決して意志を曲げないようなところがあった。彼女はゲームが好きで、昔からいろんなゲームを買い与えられていた。僕はあまりゲームをしない。しかしゲームが嫌いなわけではなかった。けれど僕はそれらを上手に買ってもらうことができなかった。だから僕はいつも彼女のことを羨ましいと思っていた。妹の一番素晴らしい人間的特質は、自分のために物事を選択できるところだ。周りに何を思われようと、自分の意志を貫くことができる。周りに目ばかりを気にして、自分の望むものを何も手にできなかった幼い僕は、そのことを嘲りながら本当は強い嫉妬を覚えていたのだった。

 だから、僕は彼女に何かをしてあげたことがない。そのことに今気がついた。それはとても悲しいことだった。思い返すほど自分という人間の醜い面が増えていく。この先どれだけのことをすれば僕は自分の顔についた黒い油を拭うことができるのだろうか。それは途方も無いような気がした。僕は、独りでどこか遠くへ行った方がみんなのためなのではないだろうか。

 弟のことも僕はよくわからない。小さい頃はとても可愛がっていた記憶がある。小さい彼は僕によく懐いていた。しかし小学生高学年頃には嫌悪の対象になった。何故なら彼は僕が自分の内に隠し持っている汚い一面をさらけ出したような存在になったからだ。彼は僕によく似ていた。彼は周りに対する自身の嘲りを隠すことがなかった。そしてそんな態度をとることが許されるほど自分に能力があるわけではないということを知らなかった。与えられることが当たり前だと思っている。そして自分が何もできないということについては未だに気がついていないのだ。

 彼は特に両親に対してひどい軽蔑を抱いていた。何かにつけて両親の不理解、知識のなさや考えの浅さを馬鹿にしようとしたが、そんな弟の姿は僕にひどい羞恥心を抱かせる見るに耐えないものであった。実にどうでもいいことで揚げ足を取り、実に執念深く相手を攻撃する様は、自分の知能の低さを周りに向けて盛大にアピールしているのと同じであった。彼こそ「よそおい」の虜であったのだろう。自分を大きく見せるために相手を卑下する彼の手法は、高校生が掛け算のできない小学生を馬鹿にするような滑稽さがあった。他人の話を聞く耳も余裕も無く、それなのに彼の話すものはほとんどがネットでよく見る意見や偏見でしかなかった。その傾向は僕が大学に進学し家を出てから特に顕著になったと思う。今年の年始、久しぶりに帰省した僕は深夜に衝突する弟と両親の会話を襖越しに聞いていた。

「どういう意味?」

「なんでわからんの?」

「もう一度ちゃんと言ってみなさい」

 弟は大きなため息をつき、母のヒステリーについての嘲りを存分に披露したあとにこう続けた。

「だから、外食して金使う余裕があったらさ、僕に投資してよ」

「は?」

「そんな無駄にお金使うよりも子供の教育にお金使うのが親として当前だと思うけど」

 両親は絶句した。その頃、弟は入学した私立高校を辞めて家に引きこもり、独学で東京大学を目指すと言っていた。高校を辞める理由は「周りがアホばかりでレベルが低くて話が合わないから」などと言っていたが、受験勉強をしなかった彼が入れる高校はその私立高校くらいしかなかったのだが。僕は彼について考えるほど嫌悪感が増していく。それは前述した通り、彼の性格が僕に非常によく似ているからだ。僕がひた隠しにしていた汚い面を無防備に、むしろ誇らしげに見せられるのだからたまったものでは無い。

 両親は彼に憔悴しきっていた。あげく弟は抗がん剤治療を受け入退院を繰り返している祖母にまでこのような態度を取り、深夜に電話をかけて両親の愚痴を言い募り自分に対する援助を求めたらしい。

 僕は彼に対してある種の負い目がある。両親が彼のそのような傾向に困惑し始めていた頃、僕はすでに彼のことをよく理解していた。もちろんそれが僕の内に隠された感情によく似ていたからであるが、僕は僕自身のそんな姿を隠すために彼に対して理解を示すことを拒否した。それはもしかすると自分自身を裏切る行為だと言えたかも知れない。自分自身の一面を否定したのだから。そして僕は自分の罪を他人に着せ、そして自分でそれを断罪しようという態度をとったのだから、僕は弟よりも罪が深いのではないだろうか。

 どうして僕らは目の前のもので満足することができないのだろう。そこにすでにあるものを愛することができないのだろう。全てが連なりであることを理解せず、未来の夢ばかりに想いを馳せては今を罵倒し損なってしまうのであろうか。被害者ぶって不満を言い募るばかりで、この世界に自分が何も返すことができずにいることを棚上げしている僕ら。権利ばかり主張して義務や責任は無視し続ける。そして弟はそんな自分に気がつくことすらできずにいるのだ。それはとても悲しいことだった。それでも彼は僕よりも高等な人間だ。どんな人間であれ、生きようという意思がある限り、彼らは僕よりも良い人間である。

 自分独り苦しいようなことを言いながら、僕は身近で苦しむ家族のことを見て見ぬ振りし続けてきた。僕は知っていた。あの家は崩れかかっている。しかし僕には関係のないことだと、心のどこかでそう思っていたのではないか。それが僕の一番の罪であった。僕は自分独りで生きてきたようなふりをしている。今まで与えられてきたものを忘れてしまっている。自分独りで手一杯、他に何かを抱える余裕はないというようなことを言って、自らの義務を放棄している。

 だからと言って、僕に何ができる?この社会の頭を借りて考えれば、僕はまず大学へきちんと行くことから始めなければならない。そしてできるだけよい会社に就職して、少しずつ両親に今までの恩を返していく。弟の相談にも乗り、資金援助を申し出る。妹の話にも耳を傾け、その世界に理解を示す。そうやって良い兄として家族の一員としての義務を果たすべきなのだろう。

 馬鹿らしい。

 心臓に刺すような痛みが走った。ここまで育ててくれた両親に申し訳なかった。もしかすると、今死ぬべきなのかもしれない。僕は、家族のことなどどうでもよかった。僕は、僕だけが大切だった。僕はこれから先もずっと不満を抱え続けるだろう。何故なら僕の器はどんなものを注がれようと欲しいものは常に与えられていないと感じてしまうから。欲しいものなど自分では知りもしないのに。僕は人間のクズだった。そして、そのことを誇りに思う自分に気がついた。だから、家に帰っても僕は何もしないだろう。これから先も、ずっと。誰にも僕の邪魔をさせたくなかった。

 僕はきっと、何もできず無価値に死んでしまう。けれど、野垂れ死ぬその場所へたどり着くまで、誇りを持ってクズの人間を生きる方が、僕の心にとっては正しいのかもしれない。僕の小説にはきっと、僕以外に誰も出てきてくれないだろう。それは僕が他人を愛し心の中に招き入れることができないからではないだろうか。そしてその文章は僕自身を癒すためだけに書かれるだろう。この日感じた懺悔を繰り返しながら。何度でも。

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