習作

平成ペイン4

平成ペイン4

 それなのに、僕は未だなぜかこの地に留まっている。小説は書いたのか?もちろん書いていない。なぜ書かないのか?僕にもわからない。書くことがないのだ。考えれば考えるほど、僕の中には何もないように思えた。自分というものは本当に存在するのだろうか?こうやって考えているのもどこかの誰かの言葉を借りたものでしかない気がする。本当に自分自身が感じ考えているものなど存在するのだろうか。大学での脳の講義にはそれなりに興味を持って取り組んでいたので、意識というものについて考えることが多くなっていた。ある科学者は「意識とはシナプス結合のパターンである」と言っていた。シナプスというのは脳の神経細胞、ニューロンとニューロンの接合部分のことで、特定のニューロンの回路はその場所が使われれば使われるほど情報伝達が滑らかになる。そうやって回路にできた偏りが個人の意識というものを形成するのではないかという話だ。つまり僕というものはこの僕自身の内から生まれ出てきたものではなく、外の世界から与えられた刺激によって形作られたものだということになる。僕が僕だと思う僕は、結局そんな電気信号の回路の偏りでしかないのだろうか。もしそうだとしたら、どうして僕はこんなに生きることが下手なのだろう。これまでこれといって特殊な生き方をしてきた記憶はない。むしろ出来うる限り周りから何も言われないよう、意識されないようにと生きてきた。だから自分の意思を示すということが苦手だ。きっと問題はインプットに対するアウトプットなのだろう。僕はアウトプットというものをほとんどせずに生きてきたのかもしれない。それを押し殺し続けてきた結果、自分でももはや何を感じ何を考えているのかわからなくなってしまった。頭に浮かぶ考えが本当に自分のものなのかどうか自信を持つことができない。好きな食べ物すらわからない。僕は好き嫌いのない子供だったが、それは好き嫌いがわからないという意味だったのかもしれない。

 好き、嫌いというものがどういうものなのかということはわかっているつもりだ。僕はよく恋をする。すぐに恋をする。いつだって自分を受け入れてくれる存在を求めているのかもしれない。しかし自分は空っぽだという虚無感に支配されているので、僕が僕に許すのは片思いだけだった。誰かに想いを寄せられることには堪えられなかった。申し訳なくて。僕は相手のある瞬間を幸せにすることはできても未来を約束することは不可能だ。そんな責任は持つことができない。僕には何もないのだから。なので僕が身勝手な想いを募らせる相手として選ぶ女の子の多くにとって僕は一番の存在ではない。彼女たちには正当な未来を、少なくとも表向きは、約束すると言ってくれる男が必ずいた。僕にはそんなこと決して言えない。彼女たちは忙しく彼らの世話をしてその周りともうまく関係を築き、自分の生活もきちんと正しくコントロールしている。僕の恋した女の子の多くはスケジュール帳がいつもきっちりと予定で埋まっていた。そうしないと死んでしまうとでもいうように予定を詰める。僕はいつもそんなスケジュール帳の狭い隙間に埋め込まれていた。そうやって自分の生活に疑問を持つ暇もないような女の子が好きだった。自分の中に正しさを持っている女の子と一緒にいるのは安心する。

 もちろん彼女たちは何の予定もない僕の人生を受け入れることができず、目的を持った生活へと改善を試みる。自分の世話すらまともにこなせない自分には彼女たちの優しさは聖母にも劣らないと感じられるほどだった。聖母なんて知らないが。そして女の子が僕の利点を褒め、そうやって僕を彼女が考える僕にふさわしい生活に向かわせようとすることは、だいたいいつも二人の関係の終わりを予感させた。彼女たちには僕の生来の怠惰を変えることはできず、僕は生活の目的を見つけることができなかった。むろん何度か努力はした。まともな彼と別れ僕と一緒になってくれるという女の子もいたのだ。しかし彼女たちは結局僕に失望することになる。何をやらせても僕は長続きしない。いろんなことに興味は持つが、結局何も僕を没頭させてはくれないのだった。

 そんな僕を一番理解してくれたのはたぶん大久保柚季だろう。柚の季節と書いて「ゆき」と読むその名前は小説的で好ましかった。彼女もやはり隙間のないスケジュール帳を持っていた。僕は彼女のことを「ゆきちゃん」と呼び、彼女は僕のことを「まこと」と呼んだ。なぜか昔から友達は僕のことを「まこ」と一文字縮めて呼ぶので、まことと呼ばれるだけで僕の胸はときめいた。僕の一部はとても単純にできているのだ。

「まことはキャンキャンうるさい甘えん坊の子犬みたい」

 だから僕と会う日のゆきちゃんのスケジュール帳にはチワワのシールが貼られていた。確かに僕は彼女に頭を撫でられるのが好きだった。

 初めてゆきちゃんと会ったのは、バイト先の先輩の引っ越し祝いという名目で飲み会をしていた時だった。彼女は先輩の彼女で、森さんにそそのかされて無理な飲酒を続けた僕がトイレで吐いていた時にやってきた。胃の内容物を吐き切った僕は止まらない胃痙攣に体を震わせながら便器によだれを垂らして喘いでいた。涙でコンタクトレンズも外れてしまったのでほとんど何も見えなかった。その日もゆきちゃんは僕の頭を犬みたいに撫でていた。僕はすぐに懐いた。

 ゆきちゃんが僕と会うときはだいたいいつも黒のスキニーを履いていて、それはとても印象が良かった。華奢だから小柄に見えるが彼女は意外と背が高くスタイルが良かった。ショートカットの黒髪が意志の強そうな小顔をきゅっと引き締めていた。その目はいつも僕に「仕方ないなあ」と言いながら笑いかけて細められた。

「僕はいつも自分とは違う誰かを生きてきたような気がする。だから今、何もわからないんだ」

「自分とは違う誰か?」

「うん。多分、周りが僕だと思う僕を生きてきたんだと思う。そしていつの間にかそいつが僕の場所を完全に自分のものにして、僕は部屋の片隅でそれを見ているしかなかった」

「どうしてそうなったんだろう」

 夏のある日、僕らは星を見にきていた。といってもあまり天体に詳しいわけではないから、オリオン座とカシオペア座くらいしかわからない。あとは北斗七星を見つけたら、星について話すことはもうあまりなかった。

「こんなことを言うとすごく言い訳じみてて申し訳ないんだけど」

「いいよ、私しかいないんだから」

 そういってゆきちゃんはまた僕の頭をそっと撫でてくれた。彼女も多分、それが好きだったんだ。僕は小さい子供のような気持ちで、星に向かって言い訳を残しておくことに決めた。こんなこと言っても仕方ないのだけれど、誰かが知っていると思うと、ほんの少し、救われるような気がしたんだ。

「僕には一つ下の妹がいるんだ。この子は生まれた時たった五百グラムしかなかった。信じられる?実際この子が生まれた時のカルテには蘇生と記されてるんだって母が言ってた。未熟児で生まれたこの子はだから、すごく手がかかったんだ。そして僕は、今となってはよく言うなって感じだけど、たぶんとってもいい子で手がかからなかったんだよ。それはそんな妹の世話で手一杯の両親を見ていたからだと思う。僕は小さい頃電車が好きだったみたいで、一人で電車の本やビデオをみて、一人でずっと遊んでいられたんだ。今では全く覚えてないけどね。全然甘えない子だったわけじゃないよ。新幹線を見に連れて行ってもらったりもしたし。彼らは僕の目から見てとても良い親だったと思う。こんな僕の中に社会倫理みたいなものがちゃんとあるのはあの人たちが善良で正しい人たちだったから」

 ゆきちゃんは空を見上げる僕の横顔をじっと見つめていた。彼女はそうやって人のことを真っ直ぐ見つめる癖がある。僕はその視線が好きだった。だいたいみんな僕の話を真面目に聞いてはくれないから。僕はいつも理解されたがっていたのだと思う。

「僕が小学校に上がった年に弟が生まれた。この子がまた違う意味で、むしろ妹以上に手がかかる子でね。妹は大人しいもんだった。弟はひどいアレルギーで、初めは食べられるものがほとんどないくらいだったよ。特に顔のアトピーがひどくて、眠るときはかわいそうだけど掻きむしらないように両手を白い包帯でぐるぐる巻きにしてたんだ。毎朝その真っ赤な包帯を見るのは気が沈んだね。記憶の中の小さな弟はずっと泣き続けていた。誰が悪いわけでもなかったんだけどね。母は手当たり次第いろんな治療を試してたと思う。薬が山ほどあったし、よくわからないお祈りみたいなのにも行っておかしな呪文を唱えたりもしてたな。一年くらい大分の温泉に母と弟の二人で泊まっていた時期もあった。父はトラックの運転手で、夕方帰ってきて早朝出かけていく生活だったし、この人は家事能力が全くなかったからね。しばらくは大変だったと思うよ。あんまり覚えてないんだけど」

 僕は話しながら、当時の記憶がほとんどないことに驚いた。まるで他人の話みたいだ。自分の語る言葉にほとんど実感がなかった。

「そんな感じでさ、僕の下の子はとても世話が焼けたんだよ。だからだと思う、僕は自分で言うのもあれだけど、とってもいい子でね。さっきも言ったけど。どれぐらいいい子かって言うとね、帰り道に知らない小さな子が泣いてたら、おうちを尋ねて背負って送ってあげるみたいな子だったんだよ。たぶんね、自分の中の正しさみたいなもの、倫理みたいなものに強く囚われてて、そういうのほっとけないんだな。今でもスーパーで買い物カートがほったらかされてたら戻すくらいのことはするけどね。で、家では自分のわがままみたいなものを主張する余裕もなかったわけ。誕生日やクリスマスに本当に欲しいものをもらった記憶もないもんね。でもいつもとっても喜んだよ。あとでベッドで泣いたことも何回かあったな。なんでわかってくれないんだろうって。妹はそういうのが上手だったんだ。祖父母にも溺愛されてたし、意思の疎通がなかなか計れない子だから、この子の話はみんなが一生懸命聞き取ろうとするんだ。僕はいつもそんな妹を羨んでいた、わけでもなかったかな。別に欲しくないもので、別にやりたくないことで満足する方法を学んでいったんだと思う。よくわからない。小さい頃の僕が感じていたものは本当に思い出せないんだ。何も望んでいなかったような気もするし、いつもやりたくないことをしていたような気もする。僕は小学生の頃からサッカーをしていたんだけど、本当はあんまりやりたくなかった。自分でやりたいと言ったくせにね。従兄弟がサッカー漬けの生活をしていたから、自分もそうであるべきだって思っていたのかもしれない。でも他に何がしたかったのかと言われると全然思い浮かばないな。本当に欲しいものもなかった気がする。ああ、こう見えて僕小学校の時生徒会長までしたんだよ。嘘じゃないよ?なんでそんなことしたのかさっぱりわからないけど、きっとそういう空気があったから、それに従うのが正しいと思っていたんだ」

 つまりさ、と言って僕は寝転んだ。夜露に湿った草が冷たくて心地よかった。

「僕は小さい頃から自分の欲求を示すってことをしてこなかったわけ。ずっと周りを見て、周りが求めるように選択してきたんだな。自分から何かを主張することは出来なかった。遊ぶにしてもいつも誘われる側だった。自分から誘うなんてことは申し訳なくてできなかった。こっちのやりたいことに付き合わせるなんて恐れ多くて。それに自分のやりたいことなんてわからなかったわけだし。それが高校生になって、少しは考える頭ができてきた時に、大きな問題になったんだな。反動というかさ。どうして生きてるんだろうって。当たり前のようにやらないといけないこと、その理由がさっぱりわからなくなったし、何もかもが嫌になった。何がやりたいってわけじゃなかった。そうじゃなくて、とにかく何もやりたくなくなったんだ。自分って何だろうって、全くわかんなくてさ。自分の欲求とか、好みとか、考えれば考えるほど。自分ってものがいつの間にか無くなっていたっていうか、それまで生きてきた時間で、何も形作られていなかった、自分の中に何にも積み重なっていなくて、空っぽなことに気が付いたんだ。生きている理由がなかった。それで、学校へ行くのを辞めた。たしか三ヶ月間くらい」

「どうして戻ったの?友達が誘いに来たり?」

「別に、理由は無かったな。たぶん怖くなったんだ、まだ子供だったし、あんまり当たり前から離れるのが。だから何事もなかったようにある日また学校へ行くようになった。親には随分心配をかけただろうけど、今でもさっぱり理解してないだろうね、あの時なんで僕が学校へ行けなかったのか。申し訳ないけど、僕は両親に理解されてると思ったことがないんだ。いつもずっと孤独で不幸だと思ってた。誰も助けてくれないって。とてもいい親なんだけどね。ただ違うってだけで。僕が何もせずに毎日を損なっていたのが悪いんだけどさ、僕をどこか違う世界へ連れ出してくれる人にも出会ったことはないし、影響されるような先生や尊敬できる大人にも出会わなかった。きっと彼らは僕の人生のどこかにいたんだろうけど、僕はずっと下を向いて生きてきたから、気がつくことができなかったんだろうね。僕に寄り添ってくれるのはヘッセの小説くらいだったな。僕の書きたいことはだいたいこのノーベル賞作家が書いてるんだよね。僕なんかよりよっぽど高度な思想で」

「そっか、まことが小説家になるにはノーベル賞作家を越えないといけないわけだ」

 ゆきちゃんが笑ったから、僕はとても嬉しくなった。彼女の笑い声は軽やかで、いつも僕の胸をくすぐるんだ。僕はそっと彼女の白い手を握った。それは僕のできる最大限の愛情表現だった。それ以上のものは許されない。その時の僕は彼女のことが本当に大切だったから、失いたくなかったんだ。彼女の冷たい手がそっと握り返してくれた。それだけで僕は泣きそうになる。

「こんな話どう思う?やっぱり言い訳だよね。僕の家は裕福ではないけれど、一般的で平和な家庭だった。両親の関係は良好だし、人柄も他の家の話を聞くより良いように思う。やりたいことをやらせてくれようとしていた。でも僕にはさっぱりわからなかったんだ。ずっと周りの思う自分でいようと努力してきたから。自分なんてものは生まれていなかったんだよね。だから何をしても夢中になれない。何をしてもどこか虚無感があって、うん、本当に何もしたくない。僕はそれまでずっと周りを見て生きてきたから、みんなが自分の人生を生きようと言い出しても、僕は観察者であり続けたかった。何者かになりたくなかった。ずっと漂っていたい。どこにも居たくない。たぶん僕が求めるのは、旅をして、そこにあるものを見て、それだけ。それでどうしたいってものは無いんだ。出来るだけ誰にも迷惑をかけないように、いろんな人の物語を見る。僕の中に無いものをそうやって補いたいんだと思う。空白を埋めるみたいに。僕にできることは、みんな幸せになればいいなって祈るくらいで」

「まことも幸せになんなきゃ、だよ」

 ゆきちゃんが僕の目を真っ直ぐ見てそんなことを言うから、僕は目をそらすため別の空に星を探した。

「それはちゃんとこの世界で生きる意志のある人のものだから。僕はそんな責任を背負うことはできないよ」

「馬鹿みたいに被害者ぶって自分の世界に浸ってるだけでしょ。はい、言い訳おしまい」

 僕は声を出して笑った。ゆきちゃんのこういうところが好きだった。彼女はいつも現実が見えているような真っ直ぐで意志の強い目をしていた。ゆきちゃんはそんなことを言いながら微笑んで僕の頭を撫でるんだ。

「ゆきちゃん」

「ん?」

「好きだよ」

「うん」

「幸せでいてね」

「うん」

 それ以上何も言うことはなかった。ゆきちゃんも何も言わない。彼女は頭がいいんだ。やっぱり、そういうところが本当に好きだったな。

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