DIARY

最後の散歩

この雪山の宿で迎える最後の休館日となった。あと一週間すれば私は長野県を後にして地元へ帰る。休館日には食事が配給されないので、朝から雪道を降りホテルのラウンジにあるカフェへ向かった。

いつも通りパン・オ・ショコラを二つ買い、窓辺の席でゆっくり食べた。雪道散歩でまだ息が上がっているので、あまり急いで胃に詰め込むと吐き気を催してしまうことは学習済みだ。

コールドウェルの「作家となる法」を読みながら、寒さに凍えた手を温めた。わざわざ重たいカメラを持って降りてきたはいいが、あいにく景色は雪雲に覆われ殆どくすんだ灰色の世界だ。

二時間ほど彼の作家としての履歴書を読み進め、改めて作家になることへの心構えを考えた。やはり私は職業作家になるには考えが甘過ぎ、何も行動できていないも同然であった。

つまりそれは、これからやるべきことがまだたくさんあるということ、できることが山ほどあるということを示唆しており、行き着くところまで行っていないということを証明していた。この雪山で再度書くことを見失った私にとって、まだできることがあるということは大きな希望だった。

売店でカップラーメンとチョコレートを買った。それらは低下のおよそ1.5倍の値段にまでつり上がっていたが、この閉ざされた雪山の上では仕方のないことである。それに今日は一応バレンタインデーなので、世間の慣習にも従っておこうと思ったのだ。そう言えば昨日配給されたおやつがチョコレートだったのもそういうことだったのかと、この時ようやく思い至った。

行きではリュックの中に入れていたカメラを取り出して首にかける。しかし帰り道もこれといってシャッターを切りたくなる光景は開けなかった。腕と目の優れたカメラマンならばこの景色にも何かを見いだせるのかもしれないが、あいにく僕はただの素人だ。しかしお義理に雪雲に煙った眼下の町へ向けて一度だけシャッターを切った。

このカメラともあと一週間の付き合いだ。というのも、これは借り物であって、正社員登録をしたにも関わらず3カ月足らずで去ることになった私に憤慨している社長が土産としてくれるとは到底思えなかった。

カメラとの別れは寂しかった。何もない雪山で書くこともできず眠ることにほとんどの時間を浪費していた私にとって、このカメラと雪山を散歩することは殆ど唯一の気晴らしとなっていた。しかし三ヶ月ではまだこのレベルの一眼レフカメラを買うほどの預金は溜まっていなかった。しばらくは写真ともお別れだろう。

スキー場へ向けて凍った斜面を慎重に歩いた。風が冷たく、シャッターを切るためにポケットから手を出すことさえ躊躇われた。煙草を吸うか、風に煽られたフードを直す以外にこの冷風に素手を晒したくなかった。

体力の衰えのおかげで、短い車道を降りスキー場に辿り着くころには体が暖かくなってきた。そのためここで煙草を一箱買っておいた方がいいのではないかということに思い至る。あと数日とは言え、最近のペースで煙草を吸い続ければ残りの一箱では保つまい。煙草を我慢することは大した苦痛ではなかったが、我慢しなくてよいのなら我慢しない道を選ぶのは当然のことだろう。

というわけで、この雪山の上で僕が所持している現金は正確に残り723円となった。しかしこの地を後にして町の銀行に辿り着くまでにこれ以上現金を使う必要はないのでこれといって困ることもない。最後に自動販売機でジュースでも買える程度は残っているので何も問題はなかった。

スキー場では相変わらず質の悪いスピーカーが大音量で流行歌を流している。これはスキー客の遭難を防ぐ目的でもあるのだろうか。いずれにしても静かに歩きたい私としては随分とわずらわしく、無音のイヤホン耳栓がわりに付けようかと思ったくらいだが、寒さにかじかんだ手は細かい作業ができる状態ではなかった。

そしてイヤホンを付けるという行為は現在の状況ではまさしく細かい作業に分類される類のものだった。よって私は諦めて前に進んだ。

今日唯一シャッターを切ろうと思ったのは、この雪景色の中でしもやけみたいに赤茶色に佇むカラマツに対してであった。しかし何度か設定を変更しながら撮ってみても思ったような色合いは表現できず、私の両手はまたいそいそとポケットの中へ戻っていった。

さて、あとはスキー場のコースに沿って続く斜面を登り切れば帰還である。斜面の上へ向かうリフトが「お進みください」という音声を繰り返し続けている。

私は一体どこへ向けて進んでいるのだろう。

未来に対する不安はもちろんあったが、今この瞬間はそれほど色濃くなかった。旅館勤を三ヶ月で辞め、三月からは工場で三ヶ月働く予定だ。それを終えれば友人のいるタイへ長期旅行へ出かける。その先はまだわからない。

とにかく、来週仕事を終えれば、私はこの雪山とおさらばだ。そのことがまず胸を軽くしていた。そうは言っても、辞めることを伝えてからの一ヶ月はそれなりに楽しかったのだが。新しく覚える仕事もなく、先輩のO氏と辞めた後の旅行の計画を立て、昼休憩では何に妨げられることもなく眠り、夜仕事が終わると食堂に忍び込んで小説を一つ仕上げた。

ここでやろうと思っていたことの多くはやらず仕舞いに終わってしまった。カラマーゾフの兄弟を読むことや、周囲の山を制覇することなどは達成したかった。しかし特に寂しさはない。やはり私はどこにも定着できない放浪の人種なのであろう。この小さな世界から解放される喜びの方が優っていた。

そんなことじゃダメだと何人かに言われたが、そうは言ってもここでこれ以上過ごしたところで何か見いだせるとは思えなかった。

とにかく旅がしたい。ならすればいいじゃないか。

コールドウェルは多い時週に二作の短編を書いては掲載されるまで文芸誌にたらい回しに送りつけていた。書くことは尽きなかったと彼は言っている。しかし私はどうだろう。私は自分の周りの世界に何も見出せずにいた。

今書いている小説を書き終えたなら、私もしばらく短編小説を書こうと思う。週に二作。インプットもアウトプットも足りていない。もっとこの世界を知らなければならない。

書かなければ書けるようにはならない。とにかく書こうと思う。時間を文字に変えなければならない。

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