漂泊の日々

 僕は何が気に入らなかったのだろう?何がおかしいと感じていたのだろう。もうあまりよく思い出せなくなっていた。この部屋に引きこもって大学へ行かなくなってから数ヶ月が経ったが、僕はあの心底嫌気がさした日々から逃げ出して、どれだけ素敵な時間を送ってきたというのだろうか。実際は、起きて、食べて、寝ての繰り返し。昨日の記憶もあやふやなまま、時が過ぎ去ることをただひたすらに堪え忍んでいただけだ。どうしてそんなことをしなければならなくなったのか、今ではぼんやりとしか思い出せない。

 とにかく、気に入らなかったのだ。何も考えていない人たちの中で、意味のないことをしなければならない日々が。ただ与えられたものをこなすという努力がどれだけ崇高なものなのか、あの頃の僕にはわからなかった。いや、与えられるものにしか気付けない自分自身が悪かったのだ。自分次第で、もっと遠くまで行けたはずなのに、目の前に差し出されたものに満足できず、自分はもっと特別なものを待っているようなふりをして、やらなくてはならないことから逃れ続けていただけだ。

 僕は何がしたいのだろうか?心底馬鹿らしいと思っていた世界から逃げ出して、この部屋で何を探そうというのか。あの日の僕がいた場所を、とにもかくにも否定したかっただけであり、どこへ行きたかったわけでもなく、何をしたかったわけでもないのだろう。ただそこに居たくない。その思いを遂げただけだ。そして今、僕はこの部屋に居続けることにも限界を感じ始めていた。

 僕はどこへ行けばいいのだろうか?どこへ行って、何をすればいい?何も考えずに指示に従うだけの頭のない人たちを散々軽蔑しておいて、今となっては彼らに強い憧れを抱いているのだった。彼らこそ、人間の進化の果てなのかもしれない。考えてみれば、科学の発展はすべての人が等しい能力を持つことを目的としているのではないか?足りない能力を補う装置が次々と発明され、どんな人間でも同じような活動ができるようになり始めている。最近では脳に情報をアップロードすることで、テスト勉強が不要になるというような技術まで発明されるかもしれないという噂だ。

 そうなると、僕たちが心底大事にしているように見えて、社会的には害でしかないというように扱われている「個性」というものはどうなってしまうのだろうか?誰が何をやろうが同じ能力を発揮できるのであれば、あとは好みの問題ということになるのだろう。素晴らしい世界だ。みんながみんな好きなことをできるなんて。ただ、どれもこれも自分が考える想定通りの事象ということになり、何もかもがつまらなくなるだろう。みんな同じで、みんな悪い。そのとき僕たちは、どうして生きているのかと考えるだろう。

 生きているとはどういうことなのか?ただ呼吸をしていればそれは生きていると言えるのか?脳死と判定され、生命維持装置なしでは命を繋ぎとめておくことすら不可能な人でも?おそらく多くの人はただそれだけで生きているとは感じないだろう。人間にとって生きているとはどういうことなのだろうか。

 気がつくと、カーテンの向こう側がもう薄明るくなり始めていた。今日も僕は目を覚ましたまま朝を迎え入れることになったようだ。もう少ししたら目を刺すような強い朝日が現れて、それから逃れるようにようやく僕は眠りに落ちることができる。それはこの世界から逃げ続けるために僕の体が勝手に身につけた方法だった。いつの間にか、太陽が昇っている間ならいつまででも眠れるようになっていたのだ。僕の世界には夜しかない。孤独と自己嫌悪にまみれた自傷行為のような夜しか。

 重い体。泥だらけのユニフォーム。僕は中学校のグラウンドにいた。サッカー部の同級生や先輩が走っている。僕もゴールへ向かって走るが、体が重い。思うように走れなくて気持ち悪い。どうして、あの頃は僕が一番足が速かったのに。みんな遠くへ行ってしまう。遠のくゴール。遠くで何度も鳴り続けるホイッスル。リフレイン。

 アラームが鳴っていた。十七時。アルバイトへ行かなければならない。今日も一日を失ってしまった。寝起きはいつも最悪だ。自分の何かがどんどんすり減っていくのを実際に感じるのに、それがどこなのかわからない。目に見えなくて、実体のないものなのに、それは確かに存在して、確実に削り取られ続けているんだ。僕はそのことを知っている。そして、僕がこんな生活をやめない限り、それは永遠とすり減り続けていくのだ。なら、最後に残るものはなんなのだろう?いや、現実的にはそんなところまでこんな生活は続けてはいられないのだが。

 アルバイトをしていることで、僕の人間性はかろうじて繋ぎとめられているのだと思う。たまに声が出ていないときはあるが、まだなんとか他人とまともな会話ができた。しかし、日中の生活が存在しないので、向こうから何か言われない限り、こちらからは何も話すことがないのだ。

 ただ時間をこなしていくこと。それが今僕がやっていることのすべてだ。自分の中からは何も意欲が湧いてこなかった。このまま時間を無駄にし続けることはできないとはわかっているが、だからといって何をすればいい?何をしてももう、逃げているようにしか思えない。それくらい、やらなければならないことから逃げ続けている。

 いつからだろう、僕が面倒なことから逃げるようになったのは。学校の勉強や、社会の風習や、この世界のいろんなことが馬鹿らしいなんて思ってしまうようになったのは。なんといっても僕が無能で馬鹿だったのだろう。この世界にも、僕たちが生きていることにも、突き詰めていけば意味なんてない。だから、人間的な幸福とはたぶん、精神的に崇高な話ではなくて、生物的な生きやすさの話になるのだと思う。人間は自分たちで構築し続けてきたこの社会に依存して生きているのだから、その社会により順応し、その流れというものに身を任せ、エネルギー消費を抑えるためにできるだけ思考を放棄し、見せかけの社会の答えを信奉することで幸せを感じるのではないだろうか。同じバイト先で働く学生達を見ていると、特にそのような考えが強くなる。

 そう、今の社会はこれまで積み重ねられてきたものの上にあって、そこにはそれまでのいろいろな事象の答えがすでに用意されているから、僕たちは思考を飛躍してその答えをただ実行すればいい。グーグル検索万歳。だから自分の意思なんてものはないし、自分の発言に自信なんて全くない。自分で積み上げてきたものなんて一つもないのだから。

「何か意見はありますか?」

「ありません」

 以上。あとはよろしく。僕は悪くない。僕に責任はありません。この社会が悪い。全部全部、こんな社会のせいだ。こんな社会を作った大人たちが悪いんだから、僕たちは何もしなくていいはずだ。教えてもらってないぞ、そんなこと。僕は悪くない。僕は悪くない。

 社会に出て働いたこともない僕がこんなことを考えても何の真実味もないハリボテな思考でしかないけれど、そんな空気はすでに学校生活でも感じることができるのだから、これから先もたいして変わりはないだろう。

 バイト帰り、そんなことを考えながら、なんとなく、橋の上から川を見る。真っ暗な水面が、電灯の強い明かりでぬめぬめと輝いていて、ひどく重たいものを運んでいるように見えた。重油でも流れているのだろうか。いや、そんな考えは心底つまらない。ありえないし、ユーモアもない。ただ、その窒息しそうな色に強く魅入られた。重そうという感覚から引力でも発想したのだろうか。それはほんの一瞬のことだった。音も感じず、呼吸も忘れ、とにかく、その川面に引っ張られたのだ。そしてそれは何の思考も存在しない、ひどく心地良いものだった。

 引っ張られていた手を突然離されたように僕は橋の欄干から飛び退いた。何かを見た気がする。しかしその何かは僕の意識に上る前に記憶の渦に飲まれて消えた。

 夜が始まる。僕の目は冴えわたっていた。日中眠り続けていたのだから当然だ。この時間に何かをするか?いや、何もしたくない。動きたくない。眠りたい。けれど、眠るのもしんどい。中途半端な吐き気と頭痛を伴った、いつも通りの夜だった。僕は何をしているのだろう。何度こんな日々を繰り返すのだろう。意味がわからない。けれど、僕にはもうどうすることもできない気がする。誰か助けて。そう思っても、メッセージを送るべき相手は一人もいない。誰も僕を救えない。これが僕の人生。今更だが、すべて自分で選んだもののようだ。だから誰の責任でもなく、僕が悪い。

 そうだろうか?僕はただ生きたいと願っただけなのに。こんな意味のない生活を送りたくないと、すべてを無価値で無意味なものだと決めつけたのはとんでもなく馬鹿で愚かだったかもしれないが、本当に、ただ、ちゃんと生きたいと願っただけだったのに。

 引きこもる前の僕の生活は、ありふれた、どこにでもいるようなしょうもない大学生の日常。意欲も自主性もなく、ただ言われた課題をこなすだけ。流れのままにこなす日々、リアリティーのない時間が過ぎていく。痛みを感じることもそうそうなくて、ほとんどなんの刺激もない。生きているという実感がなかった。

 それでどうして引きこもってしまったのだろう?自分が世界を否定すれば何もかもが逆転するとでも思っていたのだろうか?刺激的な何かが向こうから突然やってくるとでも思っているのだろうか?終末世界の妄想は引きこもりの定番だろう。けどそんなもの心の底から信じている人はいない。何をしているのだろう?何を考えている?わからない。何もわからない。何かをしたい。けれど何をすればいい?

 本気で生きることが怖いんだ。自分が何も特別ではないただのその他大勢で、特別なことなんて何一つできないという現実を受け入れることができないんだ。そんな子供じみたことを思っているから、いつまでもこんなところから抜け出せないんだ。答えが溢れかえっている世界で、何をやってもたいして意味はないんでしょって言ってみて。車輪の再発明ばかり。なら僕がやるべきことはなんだ?結婚して子供ができて家族のために働くことか?それはきっと立派で幸せなことなんだろう。だけどそんなことみんながやればいいじゃないか、どうして僕まで同じことをしなければならないんだ?人間という動物の一種だからか?種を残してその繁栄に従事することだけが目的か?もっと何かないのだろうか、何かもっと、意味のあることが……。

 この不確かな世界に、本質的に意味のあることなんて何一つないのだろう。それはそれぞれの人間がそれぞれの価値判断で決めるものだから。それでいいと思わなければ、どこへも行けない。この部屋からでなければ、何も始まらない。思考を行動へ変えなければ、何も変わらない。けれど、どこへ行けばいい?何をすればいいのだろう。誰か教えて下さい。

 今日も意味のないことをしよう。何の結果も生み出さないことだ。それは想像の刃。ゆっくりと、僕はその刃を自分の心臓に突き立てる。大切に抱きかかえるように、深く、深く。目の裏で川面の光が瞬いた。そこはきっと何も考えなくていい、心地の良いところだろう。流れ流され何もわからなくなってしまえる、とっても素敵な場所。それでも僕は、この吐き気のする部屋にすがりつく。狂うこともできない出来損ないの遭難者。きっとまだ、明日の自分を信じているんだ。だから僕は馬鹿だって、自分で思う。そんな、朝。久しぶりに、一つの短編を書き上げることができた。それは「嫌煙」というタイトルの、二千字程度の物語だった。

 吸い慣れない煙草の煙が目にしみた。夜。運転中。左手から短い煙草が滑り落ちた。「あっ」と声が溢れた。そして男は「ぎゃっ」と叫んだ。煙草を挟んでいた指が、黒い芋虫のように蠢いていた。いや、それは実際芋虫だった。腹から喉に向けてよじるような悪寒がこみ上げ、喉が胃液で熱くなり、嫌な匂いが鼻に抜けた。反射的にブレーキを踏み込み、暗い一本道の真ん中で車は前のめりに停車した。体から遠ざけた左腕を大きく振るも、芋虫はやはりそこから生えていた。男は狂気に駆られ二本の指をダッシュボードに叩きつけた。

「ぐあっ!」

 痛覚は男のものだった。潰れた芋虫は闇の中でテカテカと光る液体を吹き出しながら、より活発に蠢きだした。男は小さい頃、車のドアに指を挟まれたことを思い出した。夏で、バーベキューの帰り道、まだ子供だった男が乗り込もうとした時、ふざけた兄がドアを閉めたのだった。あの時の、体の感覚が一本になり、他の部位がしんと静まり返るような、原始生物的な痛みだった。歯を食いしばり過ぎたのか顎の筋肉が引きつり、歪んだ口が戻らなくなった。それでもまだ右手を伸ばしギアをパーキングに入れてサイドブレーキを引くくらいの冷静さは残っていた。しかしハザードランプをたくほどの余裕はなかった。

 ドアを開け外に出た男は、理由もわからず走りだした。しかし逃れたい芋虫は彼の手の先でいつまでも身をよじっている。闇の中から恐怖が胃の中に忍びこみ、内側から彼を引き裂こうとしているようだった。足が絡まり、男はアスファルトに向けて勢いよく飛び込んだ。右側の頬、肩、肘、大腿部、膝、踝。これは自分の体の痛みだ、と思うと嬉しかった。しかしどうして自分は左側をかばうような転び方をしたのだろう?痛みが分散し、男はわずかに思考を取り戻した。もしかすると、この芋虫は俺を乗っ取ろうというのではないか。そう考えるとゾッとした。

 男は蹲ったまま体の下にある右手をポケットに突っ込んだ。そこにはライターがあった。ナイフはなかった。ナイフを持ち歩いている人間なんていない。それは残念なことだった。しかしライターがあった。焼き殺してやる。

 その時だった。左腕の表面が疼いたような気がしたのだ。音が消え、男の全意識が自分の左腕に注がれた。鼓動が音もなく、振動でその存在を伝えていた。男は見た。体表が膨らみ、よじるのを。

「かまうものか」

 男は歯を食いしばり、蠢く芋虫の指にライターの火を近づけた。彼らは熱を感知しお互いに絡み合いながら身をそらす。己の身を大事にするその姿の滑稽さを男は鼻で笑った。そんな抵抗は無駄だ。しかし無駄だったのはそんな男の決意だった。自分の指を火で焼き切ることなんて不可能だ。男はすぐにライターを投げ捨てた。一瞬の痛みを我慢するために強く噛んだ唇から血が滴り、口の中を鉄くさく染める。そして指を詰めた痛みに、火傷による痛みが波のようにじわりじわりと周期的に加わることになった。

 男は声を上げて笑い出した。そして立ち上がると腰をかがめたまま芋虫をアスファルトに擦り付け走りだした。

「やめてくださいやめてくださいやめてください」

「痛いです痛いです痛いです」

 何故だか男は胸の内から残酷な喜びが込み上げてくることに気がついた。痛みが増し、キーキーうるさい声が大きくなるほどにその喜びは増していった。

「やめてくださいやめてくださいやめてください」

「痛いです痛いです痛いです」

「ハハハハハ」

 息もできないような笑いが腹から込み上げてくる。こんなに愉快なのは久しぶりだった。いや、もしかすると人生で初めてのことかもしれない。そして笑い声に反し男は自分の顔が表情を失っていくことにも気がついていた。顔の筋肉はもうほとんど意識して動かすことができなくなっていた。しかしそんなことはどうでもよかった。男は車に向けて走り続けた。男の走る後には黒い線が二本引かれ続けていた。

 男は息を切らせながら車のエンジンをかけ、サイドブレーキを解除し、ギアをドライブに入れた。車はゆっくりと前進を始める。そして男は右側のタイヤの前に左手を差し出した。危機を察した芋虫が喚き声を上げるのが愉快でならない。

「お前たちは俺のものだ。逃げ出すことはできない」

 そしてついにタイヤが男の小指を踏み潰そうとした時だった。男の左腕は関節ではないところからぐにゃりと曲がり、すんでのところで圧縮を回避したのだった。皮膚が裂け、男の顔に生温い液体が飛び散った。目の前にはこぶし大の芋虫の顔があった。そいつはニヤリと笑うと「ありがとう」と言った。男はその顔を踏みつけようとしたが、そいつは器用に身をよじってかわすと男の首筋に噛み付いた。

 こいつはいいや、と男は思った。俺が死ねばこいつを殺せる。自分で自分の首を絞めてやがる。これだから虫公は。笑えるぜ。だから男はそいつの好きにさせておいた。しかしその時、男はそれでは自分が死ぬということに気がついた。それはいけない!けれどもう遅かった。

 彼の目には、自分の姿が映っていた。その男は嬉しそうに笑うと、車に乗り込んでライトをつけた。彼は眩しい、と思った。そして自分の体がずいぶんと動かしづらいことにも気がついた。目を覆う手がなかった。目の前に煙草の吸い殻が転がっていた。彼の煙草とは違う銘柄だった。ずいぶんと大きいなと思った。黒い壁が目の前に迫っていた。ゴムの焼ける匂いがした。

 今でも僕と話してくれる数少ない友達にさっそく送りつけてみると、ただひとこと「こわい」と返信が来た。しかし僕はこの物語を希望の話だと解釈していた。車を降りる時、男はライトを消していない。しかし最後の場面で、男はライトを点けている。つまり、男はもともと真っ暗な道を煙草を吸いながらライトも点けずに車を走らせていたのだ。この男は死を望んでいたのだろう。積極的に死のうとは思っていないが、死んでもいいやくらいのことは思っていたに違いない。または、誰かの死を望んでいた。自分が轢き殺すかもしれないその相手に、何らかの癒しを感じていたのではないかと思う。しかし生まれ変わった男は、今までの自分を轢き殺し、ライトを点けて走り去る。生まれ変わり、新たな自分を生きる決意をしたのだろう。それがどうしてなのかはわからない。そんなことができるのならば僕にもぜひ教えて欲しい。しかし人生とはもしかすると筋の通った連続性のあるものではなく、もっと離散的なものなのかもしれない。ある瞬間を境に、突然変わることもあるのかもしれない。ここに生きる自分と、あの時を生きた自分とが同じものだとは誰にも証明できない。自分なんてものは曖昧な記憶と、この牢獄のような肉体が繋ぎ止めているに過ぎないものだ。そう考えると、自分というものは僕らが魂とか精神とか意識とか呼んで大切にしているものよりもむしろ、疎かにされがちなこの肉体にこそ宿るのではないかと思えてきた。つまりこうだ。今後の人間は自分という中身のために入れ物である体を取っ替え引っ替えすると勘違いしているが、本当は中身、つまりソフトウェアの方を更新すべきで、ハードウェアである肉体こそが主人なのだ。そしてその主人をより良い状態に保つため、その場その場に合わせたソフトウェアを導入する。だって生存のために優位な形質であるから獲得されたはずのこの意識とかいう代物が自らの生命を奪う、つまり自殺という現象は明らかにソフトウェアのバグではなかろうか。そして苦しい現実から逃れるために他の人格を作り上げるといったような精神病は、病気というよりもむしろ進化のような気がしてきた。はっはっは、今日はなかなか調子がいいぞ。こうやって世界の信じるものにケチをつけて回るのは、僕の唯一と言っていい楽しみなのだ。

 しかしだからといってこの物語が万人に救いの小説であると受け入れられる必要はない。それは必要な人がそう受け取ればいいだけの話だ。だから我が友人のようにこれをただの気味が悪いホラー小説だと読んでもなんら間違いではない。僕は彼を否定するつもりもないし、そもそも僕自身だって初めからこれを救いの小説、希望の小説だと思って書き進めたわけではない。頭に浮かんだものをそのままできる限り素直に文字へと変換してみようと試みた、夜の慰みであったに過ぎない。男が車を降りる時にライトを消していないのは、単純に僕が消し忘れたということが事実かもしれない。しかし事実などどうだっていいのだ。物語に多面性がなければそれはもう死んでいる。一義的なものなど糞食らえだ。作者に意図などない。

 まったく、世の中をきちんと生きようとする人たちはどうしてそれほど強固な意見を求めたがるのだろう。この世にはっきりとしたものなど存在しないというのに。彼らはどうしてこの世界が実際に在ると信じているのだろうか。僕にはさっぱりわからない。そんなこと考えても仕方がないって?かといって放っておけるような問題でもなさそうなものだが。それならば例えば全てのことがこうだと決まっている理想的な水晶宮のような世界になったとして、彼らはいったい何をするのだろう。何をしてもしなくても物事はもうすでに決定している。全てのことはもう記されているのだとしたら、生きる必要などどこにある?世界を一義的に決めてかかろうとする彼らの意見を是非とも聞いてみたい。ああ、そういえば先日見に行ったミュージカルの世界観設定が面白かった。その話では、生まれ変わりは縦軸の話ではなく、横に続いているパラレルワールドに移るようなものだとしていたのだ。これには僕もなるほどとうなずかずにはいられなかった。世界には常に現在しかなく、世界はいつもミルフィーユのように重なり合い、響き合っている。だから本物の世界がどれかなんて考える必要はなく、それぞれがそれぞれの影であり、お互いにお互いのエコーとして、そうやって曖昧に、不安定に、そして奇跡的に存在しているのだ。僕はその考えが心底気に入った。そんな世界ならば、希望を持って生きることができるような気がする。まあ、この世界がそうだとは限らないので僕がそれから意欲的に生きようと心を入れ替えることはなかったのだが。それでもその可能性の示唆はそれなりの救いを僕に与えてくれた。

 僕らは未来を生きたがり過ぎている。来るともしれないいつかのために、今を犠牲にしている子供の多いこと。大人になんてなるもんじゃない。子供という、人間が唯一本来的に生きられる期間を、大人になって死んでいくための準備期間として生きなければならないこの社会は、なんとも悲しいものではないか。救いがないと呟きながら、必死に社会生活にしがみつく多くの人間は、きっともう、一人の人間ではないのだ。彼らはすでに人間という種、人間という概念に成り下がっている。個としてその身に宿る人間性は捨て去っているのだ。もちろんまだそれぞれにそれぞれの苦難があり、状況があり、幸せがあるが、それはもういくらも繰り返されたどうでもいいものでしかなかろう。シミュレーション仮説が正しいとすれば、彼らのそのような生はもはや観測対象から外れた惰性的なものでしかない。そしてその中庸さこそ、今を生きる社会人間に対して最も幸福を授けるものであるのだ。この世界はもう終わろうとしているのではないか?人間は増え過ぎた。ほんのわずかのイレギュラー的な人間以外、もう全てデリートキーで消し去ってしまってもいいのではないだろうか。いや、そんなイレギュラーを生み出すためには、これだけの社会人間と社会システムが必要なのだろうか。観測者はいったい何を探し求めているのだろう。この宇宙を記述する大いなる言葉とかいうやつか?そう、僕らはこの宇宙の言葉なのだろう。宇宙規模で見れば人間の命なんて使い捨ての電池のようなものだ。しかしそんな使い捨て電池がこの瞬間を照らし続け、永遠を証明しようとしているのだから、これは大したものだと思う。永遠がないとすれば、数字の最後は何と呼ぶのだろう。それを知ることができれば、いったい僕らは、世界は、何を見出すのだろう。

 ある作家が、小説とは、そこにある言葉で、そこにある言葉以上のものを表すものだと言っていた。だから僕は小説に希望を見出したのだろう。ここにある世界で、ここにある以上のものを表すことができれば、僕らは救われるのだと思う。僕らの魂がもしあるとして、多くの神話が示すように、それはこの世界には収まりきらない、この世界の外のものを含むものなのだろう。昔からずっと人間はそのことに気づいていたようだ。グノーシス主義の言う本来的自己は、本当にプレローマからこぼれ落ちたものなのかもしれない。そしてそこまで行けば、僕らを救ってくれる天使たちが待ち受けてくれている。それはとっても素敵なことだろうと思う。ここにある命で、ここにある以上のものを。僕は欲張り過ぎなのだろうか。だから何も得られないのだろうか。いや、僕が何も得られないのは、何も行動しないからだ。行動。それこそ結果の全て。思考など幻想に過ぎない。人間は物理的な存在だ。生きているうちに霊的な存在にはなれっこない。夢が現実を変えるわけないだろう。夢が変えたのは現実の行動であろう。手と足を動かして行動すること。人間にできることはそれだけなのだ。だから僕はいつか、きちんと自分を殺そうと思う。しかしそれは今ではない。ありがたいのか、残念なのか、それはその時の心理状態による。今この文章を書いている時点ではそれなりにありがたいことだ。何故なら僕はこの文章がどこにたどり着くのか知りたいと思っているからだ。未来に希望を持っている。これを書き上げたからといって、僕の生活が変わるかといえば、そんなことはないだろうが、それはその瞬間が今になるまで確定していない。未来は存在しない。どれだけ確実なことでも、それが実際に今になり、過去になるまで、確定された事象ではないのだ。悪魔の不在を証明してみろってなもんだ。証明者さんは大変だ。宇宙は今も広がり続けている。あなたの証明しなければならない世界は今この瞬間にもどんどん増え続けている。その証明が追いつくことはないだろう?いや、信じ続ける限り、あなたが証明できないとも言い切れない。だから僕らはみんな平等の立場に立っているのだ。そう考えると、この世界はそれなりに素敵なのかもしれない。神様がいるならば、あんたはうまくやったよ。

 もちろん現在僕はこの文章を誰かが読む可能性のもとに書き記しているのだが、そしてそれを心ならず求めているのかもしれないが、さしあたって誰に向けても公開する予定はない。それならばこのような七面倒な作業をする必要はないと思われるだろうか。勝手に頭の中で思っていればいいと言われそうなことはもちろんこっちだってわかっているのだ。それでも僕が書くのは、やはり書くというその行為自体から僕が癒しを得ているからだろう。そしてなんといっても、夜は長いのだ。はっきり言って、暇だ。書くことはいい。自分の不勉強に苛立ちはするが、それを差し引いても良いものだ。先日久しぶりに会った祖母にもそのことは話した。祖父の死去とともに住み慣れた三重県を離れ、知人もいない京都の長女のところへ引き取られていったかわいそうな祖母。聞いた話では、家での会話はほぼ皆無。娘からの叱責だけがコミュニケーション。日々の生活の鬱憤を話す祖母は思わず涙を浮かべていた。そして孫の僕はといえば、何もしてやることもできず、ただただ話に頷くのみ。申し訳なさはあるにせよ、自分自身のことさえさっぱり面倒のみれないクズにはどうしようもない。

 わからないものだ。一昨年の初めまでは全てが順調だったのだ。いや、そうとも言えないが、祖母はそれなりに自分好みの生活をしていたのだ。しかし夏を過ぎてから祖父の認知症が急速に進行し、僕も一度見に行ったのだが、深夜に枕を抱えて家の中を歩き回っては「殺される」と叫び通しだった。なんでも昔悪いことをしたツケが今になって返ってきたらしく、祖父を殺しに当時の仇が狙っているらしいのだ。彼の後ろを一緒になってついて行っては窓の外を双眼鏡で眺める僕に対して祖母は何を思っただろう。実を言うとあの一日きりの体験は、僕にとってそれなりにおもしろいものだったのだ。しかしそれが毎日となると、耐えられる人間などいないだろう。僕は祖母が好きだ。そしてその時、彼女は癌だった。

 そもそも祖父の認知症が極度に進行したのは、祖母が癌になったことが原因であった。今まで好き勝手生きてきた祖父は、そんな自分を唯一見放さず、帰る場所として存在してくれていた祖母の病気に動転したのだろう。そして今になって気づいたが、僕はそんな祖父によく似ていた。さらに言うと、生前祖母に心労ばかりかける祖父のことが、僕は心底嫌いだった。

 祖父は作家を目指していた。祖母にはよく「大阪のドヤ街に飛び込んで人々の生活を観察したい」と語っていたらしい。突然知らない人を連れ帰ってきたかと思うと、祖母の許可も取らずに寝泊まりさせ、後から聞くと刑務所から出てきたばかりの人だったということも何度かあったらしい。彼が人間の何に興味を持っていたのか、僕には少しわかるような気がする。そして彼は実際にある日突然姿を消したことがある。

 祖母はいく日も心配しながら彼の帰りを待ち続けた。彼女には理由がわからなかった。しかし彼は実際にそこから姿を消したのだ。その事実だけが唯一彼女に理解できたことだった。それから半年後、祖父の兄から祖母に連絡が入った。どういうツテで見つけたのかはわからないが、祖父は神戸の港町にある工場で日雇い労働者としてその日暮らしを送っていた。その一報を受けた祖母は仕事を休むとすぐさま駆けつける。

 走り書きのメモを手に、祖母は工場の用意する宿舎にたどり着いた。管理人に問い詰めると、彼は今勤務に出ている、帰るのを待つのを許すという話だったので、祖母は宿舎の前で五時間も立ちっぱなしで祖父の帰りを待った。そしてようやく、送迎のバスが宿舎にやってきた。土気色に汚れたよれよれの作業着を着て目の前に降り立った祖父を見て、彼女は何を思ったのだろう。それは僕には計り知れないことだが、彼女は一言こう言った。

「さあ、帰りましょう」

 なんだかんだと言い訳を並べる祖父だったが、音沙汰がなくとも半年間健気に待ち続け、目の前で怒り出すわけでもなくただ「帰りましょう」と静かに訴える妻を追い返すことは、どんな人間にもできなかったのだろう。最後の抵抗か、祖父は目を泳がせてこう言った。

「上着をクリーニング屋に取りに行かないと」

 たいしたもんだ、と祖母は思ったらしい。半年の失踪の、なんと滑稽な幕引きだろう。

 そんな祖父だが、結局自費出版で本を一冊出した以外に、作家として作品を世に送り出すことはなく人生を終えた。しかし正直に言って、僕は彼のことは嫌いだが、死後引き取った彼の著作のことは好きなのだ。これは非常に悔しいことだが、彼の文章は素直さと哀愁にあふれていて、どういうわけか僕の胸に真摯に届くのであった。原稿用紙に綴られた物語は、その達筆さゆえにそのような文字に慣れていない僕には読みづらいところもあったが、文章自体はとても読みやすく綺麗なものだった。祖母は彼がいつでも肌身離さず辞書を持ち歩き、文机に向かって誰に向けてでもない文章を綴っている姿を半世紀以上見続けていた。そんな祖母が最も胸を痛めたのは、認知症の末期、生涯愛用していたその辞書を、祖父が彼女の目の前で無残に破く姿だったと言う。

 おそらく、それは彼の愛ゆえにだったのだろう。自分の消えゆく命を確かに感じ、そしてその死に、愛する言葉を連れて行きたくなかったのだろう。火葬の折、自分の屍の隣にその辞書が添えられるなどということに耐えられなかったのだろう。全ては僕の想像でしかない。僕は祖父とほとんど言葉をかわすことがなかったのだから。けれど、きっと彼は自分の人生をこの世に残すために、その辞書を生きているうちに始末しなければならないと、それが生涯の相棒に対して自分が示すことのできる最後の愛だと思ったのではないだろうか。しかしそれはつまり、彼が祖母よりもその辞書と言葉を愛していたということになってしまうのかもしれない。祖母をより愛していたのなら、その辞書を自分の分身として彼女に残しておくことも考えられたのだから。いや、こんなことを言葉にする必要はない。それは言葉を超えたものだから。頭の狂った老人が最後に何を考えていたのか、それは誰にもわからない。けれど祖母がいたからこそ、祖父がきちんと死ぬことができたのは確かだ。僕は祖母を愛している。

 先週から、祖母の抗がん剤治療が再開された。治療の辛いところは食べ物が美味しくなくなることだと彼女は言った。何もすることのない老人にとって食事というのはほとんど唯一の楽しみなのに、と嘆いていた。

 僕の小説が祖母の生活を少しでも楽しませることができればとは思ったが、今自分の書いている文章を思い出してみて、それを言葉にすることは控えることにした。だから僕は祖母があまり理解できなかったと言う祖父の小説を読み、彼がどのようなことを考えながらその文章を書いたのか、僕が思うことを話してあげることにした。そうしながら祖母はその時々の出来事を思い出し、涙を流すこともあった。今僕にできることはそれぐらいのことであった。

 祖母に「書いてみたら」と言ったのも、実は僕自身が祖父母の物語をもっと知りたいと思ったからだ。そして思うに、書くと言う行為には人を癒す力があり、書かれることが過去であったとしても、それは明日を生きる力になると、僕は信じているのだ。生きているうちに話し合うことができなかった祖父と、僕はどんな会話をするのだろうか。彼は言葉をたくさん知っているから、僕は馬鹿にされて腹を立てるかもしれない。それでもそれはのちの人生にとって、楽しいひと時になるような気がする。生きるというそのことだけで、人は多くのものを生み落とすものだ。それはほとんど塵芥でしかないものかもしれないが、僕のようにそれをかき集めて紙に巻き、煙草をくゆらせるように楽しむおかしな人間もいるかもしれない。

 さて、今日も朝が来た。それはとても素敵なことなのかもしれない。奇跡的なことなのかもしれない。今日は珍しく頭がスッキリとしている。どうしてだろう。やはり文章を書いていたからだろうか。それならば、せっかくなので散歩でもして、新しい服を買い、女の子を誘ってみてもいいかもしれない。まずは顔を洗って髭をあたろう。生きて、行動し、何か話をする。そうやって人生は回っていく。意味なんてなくても、僕らは回り続ける。祖父のように、僕の言葉はどこにも届かないかもしれない。しかしそれは、まだ決定されたことではない。それは過去ではなく、未来の話なのだ。いや、もしかすると、もう一つの世界の話になるのかもしれない。しかし僕らはここにいる。

 僕らの命はまだどこにも記されていない。今僕らが記している命の言葉を、いつかの誰かが読むことはあるのだろうか。それもわからない。わからないからこそ、それは希望であり続ける。命は回る。祖父の言葉が、彼を嫌う僕にまで届いたように。生まれ落ちたその瞬間から、僕らは回り続けている。ダンス、ダンス、ダンス。そのステップが、僕らの言葉。

 西成にきたのは昼頃だった。高架上の××駅から下の道に降りると、私は前を行く人の背中について歩いて行った。ガードレール下に出た。そこを抜けると、急に騒がしい場所に出た。手ぬぐいで鉢巻をした男が、道端に雑多な衣料品を積み上げ威勢良く叩き売っており、何人かが品物を手にとって調べていた。そういう光景があちこちでみられ、人も多く出ていた。その叩き売りをやっている前を通って少し行くと、交差している広い通りへ出た。私は、その通りを信号に沿って向こう側へ渡り、それから歩道を右へ歩いて行った。左へ行ってもよかったのだが、私には左へ行く人よりも右へ行く人の方が多いように思えたので。

 歩道の左側には、八百屋があり魚屋がありパン屋があった。小さな食堂もあった。車庫のような見物があり、なかには自動洗濯機が並んでいたが、使用している人の姿はなかった。歩道の右側の電柱には<人夫募集>の張り紙があった。一本の電柱に別の募集の張り紙が三昧も四枚も貼ってあるのがあった。どれも寮付きで、雇い主の電話番号だけが大きく書かれていた。

 基幹道路に出た。中央分離帯を挟んで車が反対方向へ疾駆していた。道路の向こうには高層ビルが立林し大都会が現出していた。そこは私には縁のない世界だった。私はそこを左へ折れた。やはりこれまでと同じような個人商店が並んでいた。と、前方から異様な風体の二人連れがふらふらしながら歩いてきた。にたりとも灰色の踝まである長い重そうなオーバーを着て、ゴム長靴を履き、垂れ下がったぼさぼさの髪をしていた。ふらついているのは泥酔しているせいらしい。すれちがいにみえた顔はどす黒く、垂れた髪の間に白く細い死んだような目が見えた。私は、そのあとも何人かの薄汚れた泥酔者とすれちがった。

 私にとってさしあたりいちばん必要なことは、今夜のねぐらを確保しておくことだった。知らない土地で、それに所持金も少ないとなれば、その日のねぐらの決まっていないことほど不安なことはない。それに、私はひどく疲れを感じていた。どこかからだが悪いのではないかと思うほどだった。そのために、早くどこかでからだを横たえたくて仕方がなかった。

 歩いていると、露地への入り口のようなところがあった。私が覗き込むと奥の方に<旅館>書かれた小さな看板が見えた。私はすぐにその露地に入っていき、<旅館>の看板を目当てに歩いていった。旅館はすぐに見つかった。玄関先に宿泊料金の表示があり、最低が一泊三百円で、六百円、八百円、二千円になっていた。

 玄関が開いていたので私は黙って中へ入って行ったら奥から若い女が出てきた。

「何か用?」

 女はいかにも胡散臭そうに私の顔を見詰めた。

「部屋を借りたいのだが」

「満員よ」

 私は、これ以上何を行っても無駄であることがすぐにわかった。

 私はそこを出たが何も心配することはなかった。その辺りには、よく似た旅館がいくつもあったのだ。私は、またそのうちのひとつに入って行った。こんどは年配の女が出てきて「三時からしかやってないよ」とぶっきらぼうに行った。私は、それなら三時以降にまたくるからそのとき頼みたいと念を押した。女は黙っていた。どうやら、この辺りでは、旅館は昼の三時からしか開かないようだった。初めの旅館で断られたのも、まだ時間が早かっただけのせいかもしれない。若い女が胡散臭そうに私を眺めたのも、こんな早い時間からと思っただけのことで何のこともなかったのかもしれない。とにかく、ねぐらだけは何とかなりそうで、私も少し気分が楽になった。

 私は、時間つぶしにその辺りを少しうろついていることにした。何しろ、まだ昼過ぎである。いくら疲れているといっても、三時までそこに立っているわけにもいかない。

 歩いていると、賑やかなアーケード街に出た。中へ入っていくと、両側の商店の前の路上にいろんなものを並べてジャンバー姿の男が通行人に売っていた。時計やらバンドやら財布やらそうした類の小物が多いようだった。とにかく雑多な人間がぞろぞろと歩いていたなかでも、ジャンバーにゴム長靴姿という労働者風の男が多かった。パチンコ店も多く、喧騒を道路へ響き渡らせていた。

 おでん屋があって労務者が群がっていた。そのおでんのにおいが、私に今朝からこれといったものを口にしていないことを思い出させた。私のふところには一万円札一枚と千円札が一枚と、それに小銭が少ししか残っていなかった。私は、小銭の分だけででもおでんで一杯やりたい誘惑にかられた。私はそこに立ち止まって小銭がいくらあるか数えて見た。そうしたら、しわだらけのお婆さんが私の顔を下から覗き込んできた。そして、目をパチクリとさせてみせた。「五千円でいいよ」

 私ははじめ、婆さんは私をそのおでん屋へ誘っているのかと思った。(私の頭のなかはおでんを食いに入るかどうかのことしかなかったので)しかし、それにしては金額の高いことに気がついた。私は「女より泊まるところはないか」と訊いた。「ある」婆さんは私を横道へひっぱっていった。ちょっと不安だったが、婆さんのあとについて行くとすぐに旅館に着いた。婆さんは私を玄関の前に待たすと自分だけなかへ入っていった。なかから婆さんと一緒に旅館の主人らしい割烹着をはおった四十すぎの女の人が出てきた。

「千八百円の部屋しか空いてないよ」とその女は私の顔を見ながら言った。「それでいいよ」と言うと、すぐその女の人は私を旅館内に入れ、狭い廊下を二階へ案内していった。いくつかある部屋のひとつ戸を開けると、この部屋だといって私をなかへ入れた。そして、前払いだからと言って千八百円を要求した。女主人が去っていくと、私は、ここまで案内してきてくれた婆さんに礼を言うのを忘れたことに気がついた。すまないことをしたと思い、もう一度下までおりていこうかとも思ったが、多分もう婆さんはいないだろうと考えて諦めた。

 部屋は四畳半だった。畳は黒く、ふとんが一組み敷いてあった。どういう意味かまくらだけが二つあった。ふとんを入れるためらしい押入れがあったので開けてみようとしたが、何か閊えているようで開かなかった。とにかく疲れているので寝ることにして(ほかにすることもなかった)上着を脱いだ。そして、思い出して入り口の戸に施錠をしておこうとしたが、錠は壊れていてできなかった。諦めて敷きっぱなしのふとんのなかへ潜り込んだ。湿っぽくてそれに変なにおいがした。

 少し眠った。眼が覚め腕時計を見ると三時半だった。眠っているあいだ、旅館の外をザワザワと人の歩き回る音がしていた。夢うつつに、自分は温泉客がゾロゾロと歩き回っているような錯覚がしていた。パトカーのサイレンの音がした。眠っているあいだにも、何回かきいた気がした。

 すこしでも眠ったせいか、少し疲れがとれたような気がした。まだ夜まではだいぶ時間があった。私は、それまで外へ出かけてみることにした。所持金も先程ここの宿泊代を払ったいまは、もう一万円を切っていた。このまま、部屋のなかでじっとしている気にはなれなかった。

 旅館を出ると、あちこちをあてもなく歩き回った。頭上を効果が走る狭い路を歩いていたら、前方で労務者風の男がふらふらしていた。よほど泥酔しているとみえ、道路を端から端へとふらついているだけなので、向こうへ歩いて行こうとしているのかこちらへ歩いてこようとしているのか分からなかった。私が近づくと、男は突っ立って動かなくなった。頭を垂れ眼をふさいでいるので眠っているふうだった。私がその横を通り抜けようとしたら、男が「オッサン!」と呼び止めた。私がギクッとして立ち止まり男の方を見ると「その新聞、くれ」と、頭を垂れ眼をふさいだまま言った。

 私は、道端で拾った古新聞を手にしていた。何かいい求人広告でも出ていないかと思ったのだ。男は、頭を垂れ眼をつむっているくせに、私の手にしている新聞を眼にしていたのだ。私は、求人広告の載っているページを一枚破りとってから、その新聞を男に黙って手渡してやった。男は、うつむいたまま黙ってそれをとると、ズボンのバンドを外しはじめた。私が数歩言ってから振り返ると、男は、道ばたにしゃがみこんでいた。糞をしているらしい。

 歩き回っているうちに辺りがうす暗くなってきた。工事現場の塀があって、そこに、前に電柱に貼ってあったと同じ人夫募集の張り紙が何枚もベタベタと貼ってあった。そのなかに<アパートの管理人募集。給与十七万円>というのがあった。私は、その張り紙にある電話番号を、一枚だけの新聞のハシにメモした。その辺は公衆電話がありそうなところではなかったので、少し行って人家のあるところへでてから公衆電話を探し、そこから電話をかけてみた。

 おばあさんらしい相手がでた。

「……どんなことをするんですか」

「アパートの住人が、部屋代を夕方から夜十二時ぐらいまでに持ってくるから(どうやら部屋代は日払いらしい)それを受け取っておく仕事だよ」

「それで十七万円ならいいな。それたのむよ」

「十七万は夫婦者だよ」

「なんだ。こちらは一人なんだが」

「一人のもいまあるよ。十一万だけど」

「それたのむよ。それで条件は?」

「保証人が一人いるよ」

「それがいないんだが」

「それでは駄目だ」

 電話が切られた。私はここで仕事にありつこうと思ったら、少なくとも始めからはまともなものは無理らしいと察した。

 あてもなくまた歩き回っていたら、変なところへ出た。その一郭は、どの家も格子戸の同じ造りだった。どの家の玄関も開かれていて、土間の向こうの部屋に着飾った若い女が座布団を敷いて座っていた。私がその玄関の前を通ろうとすると、どの家からも中からおばあさんがとびだしてきた。そして「兄さん、チョット見たってえな」と中の若い女の方へ顎をしゃくった。いくらだと訊いたら六千円だという。「またにするよ」と言って私はその界隈を早足に通り抜けた。なおも歩いているうちに(知らぬうちに日はまったく暮れてしまっていた)飲屋街に入り込んでいた。飲屋街といっても、ビルなどなく一軒家の小さな店ばかりだった。まだ時間が早いせいだろう、店の中に殆ど客の姿がなく、どの店の前にも客引きの女が立っていた。そしてどの女も私を誘った。「千円でいいよ」「一杯だけだよ」と言った。こちらは飲める状態じゃないんだ、と言ったら、女に横を向いて黙殺された。「仕事を捜しているんだ」「仕事ならあるよ、飲みながら話そうよ」「遊んでいってよ、三千円でいいワ」「ダメだ、仕事を見つけてからだ」「仕事なんかしなくても私のうえにのってたら三食昼寝付きさせたげるよ」と肥えた女が媚びた流し眼をして笑った。そのうちに、飲屋街もとぎれ、なおも歩き続けていると、なかで大きな建設工事でもしているらしくパネルで片側をずっと囲った道にでた。そこを歩いていくと、前方の路上に人だかりがしていた。近づくと、一人の労務者風の男がパネルの塀を背にして木箱に腰掛けていた。その男を二十人くらいの労務者が取り囲んで笑っていた。木箱に腰をかけた男も、それを取り囲んでいる労務者の方も殆どがだいぶん酔っ払っているようだった。取り囲んでいるうちの、前列の道路に尻をおろしている連中のうちの一人が、囲いのなかほどに置かれた小さなダンボール箱のなかへ十円玉を放り込んだ。誰かが流行歌の題名を大声で言った。すると、木箱に座った男が片手に持っていたハーモニカをちょっと拝むようなしぐさをしたが(彼はそれで曲を憶いだしているのだと思うが)すぐにその流行歌を吹きだした。男が一曲吹き終わるとまた誰かが十円玉を放り、誰かが曲名を注文して、男が吹いていた。男が背にしているパネルの塀には人夫募集の張り紙が一枚下半分ちぎれたまま張り付いていた。

 私は、そこを離れてまた歩き出した。そして、また人家の密集した通りへ出たが、ちょうど一日の仕事が終わった頃の時間だったせいか、どこの酒屋も立ち飲みの労務者でいっぱいだった。私も、そのうちの一軒の酒屋に入っていった。歩き回って少し疲れていたし酒も飲みたかったが、あてもなく歩き回っているより、人の集まっているところの方がまだしも何かきけるかもしれないと考えたのだ。入ってみると、中は思ったより広く、労務者でいっぱいだった。私はカウンターのいちばん隅へいって一杯注文した。L字型になった向こうのカウンターで、坊主頭の若い男がさかんに喋り捲っていた。こういうところでは、どこでも話題の中心になっている者が一人か二人いるものである。私も、きくともなしにその若い男の話をきいていた。

「西成へ来るもんは、みな、親不孝をして逃げてきた奴ばかりや」

 みな笑った。私は、左隣の若い男に、何か仕事がないか訊いてみたかった。が、となりは私に背を向けたまま、坊主頭の方の話にばかり興がっていて、どうしても話しかけるきっかけがつかめなかった。仕方なくひとりで飲んでいると、隣の若い男が帰っていき、かわりに髭面のおじいさんが割り込んできた。私は、飲み出したじいさんをすこし観察していたが、じいさんは若い坊主頭の話には少しも興味を示さなかった。そちらの方を見ようともしない。「仕事を捜しているんだが……」と、私はじいさんに言ってみた。

「そんなことわけねえ、センターへ行け」

「センター?」

「そこへ行けば、労務者をいくらでも集めに来とるよ」

「それが、まだここへきたばかりなんでよく分からないんですよ」

 私は、じいさんに一杯奢った。つきあいに私ももう一杯注文した。

 じいさんは私の顔を見直した。それから、私の格好を足元から見上げた。「ここでは何だからこれを飲んだら出よう」と。じいさんは言いながら私のコップ酒を口にもっていった。

 コップ酒を飲んでしまうと、じいさんと私は酒屋をでた。外はもう暗くなっていた。二人で歩いて少し行くと、空き地があった。そこへ入っていったが、腰をおろせるような場所はなかったので、二人で地べたへしゃがみこんだ。そこでじいさんが教えてくれたのは次のようなことだった。

 センターへ朝早く行って待っておれば、業者がマイクロバスで迎えに来てくれるから、それに乗り込んで行けば現場に運んで行ってくれるそうで、一日仕事をさせてくれる。仕事が終わればその日の日当を現金で支払ってくれ、またもとのセンターまでバスで送って来てくれる。こういう一日労働契約と、もうひとつ、十日契約というのもあるらしい。この方は、十日間働くという約束で、賃金も十日間働いたあとでしか支払ってくれないが、その代わり寮もあって、そのあいだは寝ることも食うことも先方で面倒をみてくれるそうだ。

「十日契約の方なら京都と神戸の両方を知っているが、京都の方がいい。京都の方は寒いのだけがかなわんが、神戸はガラが悪い。アンコ(一日契約の方をこういうらしい)では、毎日宿賃がいるし、ときには遅くなったりすると満室で断れれて青カンをせんならん。今時は寒いので、誰でも宿を欲しがりそのためよくあぶれるのだ。寒いときの青カンは身体に堪えるからな」とじいさんが言った。さきほどの酒屋で、坊主頭の若い男がさかんに青カン青カンと言っていたが、そのときは青空のもとで姦することだと思っていたが、じいさんの話のなかでは、ただ外で寝ることだけをいうらしい。

「働きたいのなら明日センターへ連れて行ってやろう。ところでいまどこにいるのや」

 私がこういうところに宿をとってあるというと、「何!千八百円も!よし、そこへ行って断ってしまおう」とじいさんが怒って言った。「今夜はワシのところへ来い。ワシの部屋へ寝かせてやろう。それから、あしたの朝センターへ連れて行ってやるよ」

 じいさんは、その空き地の隅に自分の自転車を置いていた。私は、その自転車をひいて爺さんをうろ覚えの道を通りやっととってある旅館まで案内した。じいさんには入り口の前で待ってもらっていて、ひとりで中へ入って行って、女主人に知り合いのところに泊めてもらうことになったからと言って引き上げたい旨を伝えた。「払い戻しはしないよ」と女主人が言った。私は、それなら明日の朝の十時まで部屋をとっておいてほしい、ひょっとしたら朝方でも戻ってくるかも知れないから、と頼んだ。じいさんが今は自分のところに泊めてやると言っているが、成り行きでどんなことになるか知れたものではなかった。夜中に追い出されでもしたら、せめてここで顔でも洗わせて欲しいと思ったのだ。

 旅館を後にする前に、もう一度だけ部屋を見ておこうと思った。何を置いてきたというわけではなかったが、払い戻しもなかったのでなんとなく名残惜しい気持ちになっていたのかもしれない。私が部屋の扉を開くと、そこには何故か着飾った若い女がいて、こちらに向け微笑んで手を差し出した。

「お待ちしておりました、さあ」

「持ち合わせがないんだよ」

「お題は結構です。さあ、こちらへ」

 女は私がどうしても開けられなかった押入れをいとも簡単に開け、どうやらそこへ招こうとしているのだった。なんとも妙な事態になったと思ったが、私はとりあえず女に従ってみることにした。酒が回っていたのかもしれない。

「頭に気をつけてください」

 女の心遣いに感謝しながら押入れの中へ踏み入れると、奥からハーモニカの音が聞こえてきた。それは先ほど道端で聞いた流行歌を奏でているようであった。私は無意識にズボンのポケットに手を入れると、そこから十円玉を取り出して前に投げた。闇の中へ飛び込んで行く十円玉が、その軌跡に光を灯すように、辺りは突然明るくなった。そこはどこかの飲み屋のようだった。

「こちらへ」

 女の案内で私は席に着いた。わけがわからなかった。それに、外にじいさんを待たせている。私はどこかへ行こうとした女を引き止め、自分はこんなところにはいられない、と伝えた。彼女は柔らかく微笑んだだけで、なんの返答もくれなかった。辺りを見回したが、帰り道がどこか見当もつかなかった。仕方がないので私は目の前に運ばれてきた酒を飲んだ。うまかった。

「この十円玉を投げたのはあんたかい?」

 気がつくと、目の前にハーモニカ男が立っていた。私はそうだと頷いた。男は「リクエストは?」と訊いたが、私は特に考えがなかったので「なんでもいい」と首を振り、酒を飲んだ。

「なんでもいい、か。そんな気持ちでこの街へ来たのかい?」

 私は酒を飲む手を止め、男を見上げた。

「怖い顔するなよ。別に説教しようってわけじゃない。俺も似たようなもんさ。しかし、あんたは特に匂いがしないな」

「匂い?」

「目的の匂い。なんのために生きるのか、自分はどこへ行こうとしているのか。人間というのは多かれ少なかれそんなことを考えて生きているもんだ。しかしあんたからは何も匂わねえ。空っぽだ」

 空っぽか、と私は笑った。その通りだと思ったからだ。妻があり、子があり、仕事があったが、私にはよく分からなかった。私はいつも自分の中の空洞が立てる音に耳を塞ごうとしていた。人と関わり、優しさや思いやりを感じるたびに、その空洞が私を苦しませた。私には誰かに返すことのできるものが何もなかった。努力はしたが、虚しさが残るだけだった。白いページがどこまでも続いていく、そんな恐怖と罪悪感に堪えられず、私は家を出る決意をしたのだった。男は私の前の席に腰を下ろした。

「ひとつ、いいことを教えてやると」

「それは、十円の対価か?」

 男は笑って「そう思ってくれていい」と言った。

「お前は、ひどい勘違いをしている。お前が過ごした漂泊の日々に、何も残っていないと思ったら間違いだ。お前がそこから完全に切り離されることはない。お前は何も求めず生きようと思っているかもしれないが、そんなことはできない。そして、何も求められずに生きることもできない。今でさえお前はこの世界に属し、この街に属し、この店に属している。そして、今俺の話を聞いているお前は、俺にも属している。あそこにいる女の視界に属している。足元のゴキブリの意識にも属しているかもしれない」

 私は驚いて足を上げた。そんな私を見て男は笑った。そこには何もいなかった。

「三千円でいいよ」

 私の隣に来た若い女がそう言った。私は「金がないんだ」と言った。

「保証人はいるの?」

 何のことか分からなかったので私は黙っていた。すると女は突然私の腕を掴み、引っ張り起こした。

「帰りな」

「帰り方がわからないんだ」

 困惑する私を急き立て、女は私を店の入り口の方へ連れていった。後ろで男がハーモニカを吹いているのが聞こえた。そして背中を押し出され、どうしたもんかと振り返ると、そこは私が借りた旅館の部屋だった。私はもう一度押入れを開けようとしたが、閊えているようで開かなかった。どうでもいいことだったが、私は、酒代を払っていないなと思った。

 外で待つじいさんのところへ戻って「断ってきたよ」と言ったら「部屋の払い戻しをしてきたか」と訊かれた。私が「払い戻しは効かなかった」と言ったら、じいさんは、そんなバカなと言って、自分の金が払い戻されなかったように怒り出した。私は、金は戻らなかったかわりに部屋の権利を保留してきたということは黙っておいた。

 私は、雨がアパートのどこかへ当たる大きな音で眼が覚めた。もう朝方らしい。雨降りでは仕事に行きたくないなと思ったり、じいさんはこの雨でも仕事に行けというのかなと思ったりしながら眼を開けて寝ていた。そのうちに、じいさんが起き出した。「さあ、出よう」じいさんは、私に先にアパートを出ていって外で待っていろという。「静かに行くんだぞ」

 私は、どろぼう猫のように足音を立てずに廊下を渡り、アパートの外の階段を、外はまだ暗く雨で濡れているので、来た時以上に用心をしながら下りた。階段の下の露地を挟んで反対側にも同じような古木造アパートがあった。

 じいさんが傘を差して階段を下りてきた。二人でじいさんの傘のなかに入り、雨の中を歩いて行った。傘は私が差していたが、なるべくじいさんの方へ差しかけるようにし、じいさんが濡れないように気を配っていたので、私の外側の方はびっしょりになっていた。じいさんは、センターへ行くのだと言っていたが、歩いていく道は昨夜じいさんと歩いてきた道で、そのうちに昨夜じいさんと初めて会った場所へまた戻ってきただけのことである。ただひとつ驚いたことがあった。それは、この早朝に、どこの酒屋も立ち飲みの客、といっても殆ど労務者だが、で溢れていることだった。大きな一軒の酒屋の前まできたとき、じいさんが「ここは安いからな」と言って私に入るよう促した。広い店内には三十人以上もの客が立ち飲みをしていた。やはりここも殆どが労務者で、二、三人で仲間を組んで飲んでいた。なかには、コートを着た、会社勤めとわかる客もいたが、そういう人は電車に乗る前にちょっと一杯というところか、一、二杯いそいでひっかけるとそそくさと出て行った。どちらにしても、私には、これから一日が始まろうとする早朝の風景とはとても思えなかった。この店にも長いカウンターがあって、なかに店主らしい人がいて自分の近くの客に酒を注いでいた。そのほかにも女の人が三人いて一升瓶をかかえ客に酒を注いでまわっていた。カウンターの向こう隅にガラス戸棚があって、中に行く種類かの肴が皿に盛られていた。客はそのなかから自分の好みのものを選んで取り出してきた。じいさんと私も一皿づつ取ってきた。どれも五十円にしては量も多く、種類も豊富だった。どこの酒屋も客は入っていたがだいたいが小さな店だった。ここはそれらの店と違ってずっと広い店内になっていたがそれでも客が溢れているのはどうやらこの酒の肴のせいのように思えた。じいさんのようなアパート住まいや、その日その日の宿屋暮らしでは朝食もとらずに出てくる連中が多いだろうから、ここの店のこの肴はなんともありがたいことに違いない。じいさんと私はここの店で酒を二杯づつ飲み、割り勘で払ってそこを出た。そしてまた私が傘を差しかけて歩いて行った。かなり大きなコンクリートの建物の前を通ったとき私はじいさんに「ここは区役所か」と訊ねた。

「区役所?何でこれが区役所なんや。これは西成警察署やないか。西成でいちばん怖いとこや。とっ捕まってここへひっぱられてこられたら撲り殺されるんやぞ!お前は何も知らんやつやな。そのトシで阿呆と違うんか」と怒って言った。その怒りは、どうやら<警察>という、じいさんの側ではまったく無力でしかない存在に対してのもののようだった。じいさんの信念では、西成警察署は、こちらの道理や言い分がまったく通用しないところ、むこうの考えや都会だけでどんな行為も許されているところなのである。それも、法律的にである。だから、ここは西成でいちばん怖いところなのである。

 ところで私たちは、雨のなかをやっとセンターに着いた。センター、これはいったい何なのだろう。私にはよく分からなかった。職を世話してくれるところだとじいさんが言うのだから職安ということなのだろう。センターと言うのだから、正式には<中央職業安定所>とでも言うのかも知れない。どちらにしても、たかが職安のことだから、ちっぽけな木造の建物で、朝から労務者がその建物の前に集まり、それを手配師とやらがやってきて欲しい頭数だけをトラックに載せていく、私はそれぐらいのことをここへくるまでは想像していた。

 センター。現実にいま眼にしたそれは、そんな想像したものではなかった。それは、ひと口にいうと、私には大都会の中央駅みたいに思えた。それも特別大きな駅である。私は、東京やそのほかの都会の大きな駅を知っているが、そう言う駅では、朝早くから夜遅くまで大勢の人が集まってくる。この、でっかい駅みたいな建物へも、まだ朝が早いというのに大勢の人が集まってきていた。いや、群がってきていたという方が適切かも知れない。それに彼らは、本当の駅に集まってくる人たちよりも、いささかむさくるしい格好をしていた。

 私たちは建物の中へ入っていった。私は何か異様な世界へ入り込んできたような気がした。大げさにいっているのではなく、この早朝に、そして雨降りだというのに、この建物のなかへなんと大勢の労務者が群がってきていることだろう。じいさんの話だと、ここへは一日五万人が集まってくるという。その数にも驚くが、こんな早朝になんだってこんな大勢が集まってくるのだろう。

 二人はまず便所へ入った。じいさんの方が先に出て、私は手をよく洗ってからそのあとを追った。しかし、便所の前にじいさんの姿はなかった。私はしばらく捜してみたが、それ以上どうしようもなかった。私の手には、じいさんの傘があった。

 私はセンターのなかへ入るときに、作業者を集めに来ているらしいマイクロバスが三、四台停まっているのを見ていた。それで、私は外に出て、眼にしておいたマイクロバスの一台に近づいていった。

 そのマイクロバスには誰も乗っていない様子だった。私はバスの前に回ってみた。すると、フロントガラスに紙張りの看板が立てかけてあった。それには<五千五百円。十日間、食い込み>と大きく書かれ、左下に小さく<神戸市××区・信和土木>とあった。

「おっさん、どないや?」

 いつ寄ってきていたのか、白いネックのセーターに革ジャンバーを着た男が、突っ立って看板をみていた私に声をかけてきた。

 男は、革ジャンバーのポケットに両手を突っ込んでいた。

「食費を引かれるといくらになるの?」と私が訊いた。

「食い込みやから。食い込みで五千五百円や」

「寮はあるの?」

「ありまっせ。一部屋に三人どすけど、きれいな部屋がありまっせ」

 今の私には、それで十分だった。私が頷くと、男は私にマイクロバスに乗るように言った。私がバスに乗ろうとすると「コーヒーはどうどす?」と男が言った。私は、コーヒーは飲まない主義だった。それを言うと「では、酒の方?」とまた言った。私は、何のために男がそんなことを訊くのかわからなかったので、そのまま黙って誰もいないバスのなかへ乗り込んだ。窓際に座ると、革ジャンバーの男がセンターのなかへ入って行くのが見えた。男はすぐにセンターから出てきて、こちらへ歩いてきた。男はバスのなかへ入ってくると、私にカップ酒一個と茹で玉子一個をくれた。センターに入っていったのはこれを買いに行ったのだと分かった。私はカップ酒を飲み玉子を食べながら、じいさんの言っていたことを憶いだした。十日間の契約で京都と神戸に行くのがあると言っていた。京都は寒いが神戸はガラが悪いとも言っていた。このバスは、ガラの悪い方だったが、今の私にはそんなことはどうでもよかった。それに、こうして行くところに、まさかガラのよいところがあるとも思えない。そう割り切ると、私にはむしろ寒いことの方がかなわない気がした。

 突然、バスの扉が勢いよく開き、顔を真っ赤にし、長い髪をバサバサにした若い男がとびこんできた。男はふらふらしながら最後部の座席までいくとそこへ寝転がった。革ジャンバーがすぐバスを下りていった。そして私のときと同じようにカップ酒と茹で玉子を買って戻ってくると、うしろの座席の若い男の方へ持っていった。革ジャンバーの手慣れた態度からみて、若い男はこのバスの常連のように思えた。私が、ちらっと振り返ってみると、男は起きてカップ酒を飲んでいた。前に垂れた長い髪のあいだから細い眼が覗いており、それが私にはジャック・バランスに似ているように思えた。少ししてまた私が振り返った時は、もう寝転がっており、バスが動き出してからも起きる様子はなかった。そのあと、バスが神戸に着くまで、ジャック・バランスは身動きひとつする気配もなかった。

 バスが動き出す直前に、五十過ぎのオーバーを着た男が乗ってきた。男は全財産をそこへ詰め込んでいるような大きな鞄を持っていた。革ジャンバーは、その男のときはちらっと視線を走らせただけでバスを下りていかなかった。私はこの男もバスの常連なのだろうと思った。

 マイクロバスは三人だけを載せて走っていた。革ジャンバーは手配師兼運転手らしい。最後に乗ったオーバーの男は、何故かひどく元気がないように見えた。

 バスはしばらく走ると大阪を出て神戸へ入った。いつのまにか雨はやんでいた。窓の外の景色がいいので、窓際の私は窓の外ばかり眺めていた。私の手にはまだじいさんの傘が握られていた。

 

 

最後の散歩

この雪山の宿で迎える最後の休館日となった。あと一週間すれば私は長野県を後にして地元へ帰る。休館日には食事が配給されないので、朝から雪道を降りホテルのラウンジにあるカフェへ向かった。

いつも通りパン・オ・ショコラを二つ買い、窓辺の席でゆっくり食べた。雪道散歩でまだ息が上がっているので、あまり急いで胃に詰め込むと吐き気を催してしまうことは学習済みだ。

コールドウェルの「作家となる法」を読みながら、寒さに凍えた手を温めた。わざわざ重たいカメラを持って降りてきたはいいが、あいにく景色は雪雲に覆われ殆どくすんだ灰色の世界だ。

二時間ほど彼の作家としての履歴書を読み進め、改めて作家になることへの心構えを考えた。やはり私は職業作家になるには考えが甘過ぎ、何も行動できていないも同然であった。

つまりそれは、これからやるべきことがまだたくさんあるということ、できることが山ほどあるということを示唆しており、行き着くところまで行っていないということを証明していた。この雪山で再度書くことを見失った私にとって、まだできることがあるということは大きな希望だった。

売店でカップラーメンとチョコレートを買った。それらは低下のおよそ1.5倍の値段にまでつり上がっていたが、この閉ざされた雪山の上では仕方のないことである。それに今日は一応バレンタインデーなので、世間の慣習にも従っておこうと思ったのだ。そう言えば昨日配給されたおやつがチョコレートだったのもそういうことだったのかと、この時ようやく思い至った。

行きではリュックの中に入れていたカメラを取り出して首にかける。しかし帰り道もこれといってシャッターを切りたくなる光景は開けなかった。腕と目の優れたカメラマンならばこの景色にも何かを見いだせるのかもしれないが、あいにく僕はただの素人だ。しかしお義理に雪雲に煙った眼下の町へ向けて一度だけシャッターを切った。

このカメラともあと一週間の付き合いだ。というのも、これは借り物であって、正社員登録をしたにも関わらず3カ月足らずで去ることになった私に憤慨している社長が土産としてくれるとは到底思えなかった。

カメラとの別れは寂しかった。何もない雪山で書くこともできず眠ることにほとんどの時間を浪費していた私にとって、このカメラと雪山を散歩することは殆ど唯一の気晴らしとなっていた。しかし三ヶ月ではまだこのレベルの一眼レフカメラを買うほどの預金は溜まっていなかった。しばらくは写真ともお別れだろう。

スキー場へ向けて凍った斜面を慎重に歩いた。風が冷たく、シャッターを切るためにポケットから手を出すことさえ躊躇われた。煙草を吸うか、風に煽られたフードを直す以外にこの冷風に素手を晒したくなかった。

体力の衰えのおかげで、短い車道を降りスキー場に辿り着くころには体が暖かくなってきた。そのためここで煙草を一箱買っておいた方がいいのではないかということに思い至る。あと数日とは言え、最近のペースで煙草を吸い続ければ残りの一箱では保つまい。煙草を我慢することは大した苦痛ではなかったが、我慢しなくてよいのなら我慢しない道を選ぶのは当然のことだろう。

というわけで、この雪山の上で僕が所持している現金は正確に残り723円となった。しかしこの地を後にして町の銀行に辿り着くまでにこれ以上現金を使う必要はないのでこれといって困ることもない。最後に自動販売機でジュースでも買える程度は残っているので何も問題はなかった。

スキー場では相変わらず質の悪いスピーカーが大音量で流行歌を流している。これはスキー客の遭難を防ぐ目的でもあるのだろうか。いずれにしても静かに歩きたい私としては随分とわずらわしく、無音のイヤホン耳栓がわりに付けようかと思ったくらいだが、寒さにかじかんだ手は細かい作業ができる状態ではなかった。

そしてイヤホンを付けるという行為は現在の状況ではまさしく細かい作業に分類される類のものだった。よって私は諦めて前に進んだ。

今日唯一シャッターを切ろうと思ったのは、この雪景色の中でしもやけみたいに赤茶色に佇むカラマツに対してであった。しかし何度か設定を変更しながら撮ってみても思ったような色合いは表現できず、私の両手はまたいそいそとポケットの中へ戻っていった。

さて、あとはスキー場のコースに沿って続く斜面を登り切れば帰還である。斜面の上へ向かうリフトが「お進みください」という音声を繰り返し続けている。

私は一体どこへ向けて進んでいるのだろう。

未来に対する不安はもちろんあったが、今この瞬間はそれほど色濃くなかった。旅館勤を三ヶ月で辞め、三月からは工場で三ヶ月働く予定だ。それを終えれば友人のいるタイへ長期旅行へ出かける。その先はまだわからない。

とにかく、来週仕事を終えれば、私はこの雪山とおさらばだ。そのことがまず胸を軽くしていた。そうは言っても、辞めることを伝えてからの一ヶ月はそれなりに楽しかったのだが。新しく覚える仕事もなく、先輩のO氏と辞めた後の旅行の計画を立て、昼休憩では何に妨げられることもなく眠り、夜仕事が終わると食堂に忍び込んで小説を一つ仕上げた。

ここでやろうと思っていたことの多くはやらず仕舞いに終わってしまった。カラマーゾフの兄弟を読むことや、周囲の山を制覇することなどは達成したかった。しかし特に寂しさはない。やはり私はどこにも定着できない放浪の人種なのであろう。この小さな世界から解放される喜びの方が優っていた。

そんなことじゃダメだと何人かに言われたが、そうは言ってもここでこれ以上過ごしたところで何か見いだせるとは思えなかった。

とにかく旅がしたい。ならすればいいじゃないか。

コールドウェルは多い時週に二作の短編を書いては掲載されるまで文芸誌にたらい回しに送りつけていた。書くことは尽きなかったと彼は言っている。しかし私はどうだろう。私は自分の周りの世界に何も見出せずにいた。

今書いている小説を書き終えたなら、私もしばらく短編小説を書こうと思う。週に二作。インプットもアウトプットも足りていない。もっとこの世界を知らなければならない。

書かなければ書けるようにはならない。とにかく書こうと思う。時間を文字に変えなければならない。

夜の雪道を見て帰郷を決める

煙草を吸いに外へ出た。この宿では中に喫煙所がない。煙草を吸うためには大げさな上着を着重ねて冬山の寒空へ出ていかなければならない。

指が痛くなる前に風を遮り弱々しいライターで火を付ける。別に美味しいわけではない。煙草は嫌いだ。ただ習慣として吸っているだけである。体質にもあまりあっていないように思える。一日の終わりにだけ吸うこの一本のおかげで、体と頭は一段と重さを増して気分が少し悪くなる。

それでも煙草を吸う。何故か。だから習慣のせいだ。なんとなく吸わなくてはいけないような気持ちになる。煙を空に吐き出して、そのまま星を見上げた。僕は星に詳しくない。あれだけたくさんの光が訴えかけているのに、僕はその一つとして名前を知らない。いや、それは言い過ぎだ。シリウスくらいは知っている。けれどそれだけなので、結局何も知らないのと同じようなものだろうと思ったのだ。

三段の凍った階段を注意深く降りた。凍った雪が足元でひしゃげた音を立てる。冷たい風が頬を通り過ぎ、温もりを求めるように深く煙草を吸っては咳き込んだ。

空を見上げるのも疲れる。首が痛い。だから僕は足元を見た。それからその先に続く雪道を見た。暗闇の中の雪道はずいぶんと冷たく、しかし目が闇に慣れるにつれ、その中に何かを見たような気がした。

きらめきだった。雪道に星が落ちていた。月明かりを跳ね返し、きらめく星が雪道の上であちらこちらに瞬間を映していた。

まるでヘンゼルとグレーテルのようだと思った。しかしこれはどこへ向けての道標なのだろう。僕はどこから来て、どこへ行くというのだろうか。雪上の道標は僕をどこへ誘うのだろう。

そんな気になってほんの少ししるべを追ってみた。しかしすぐに引き返す。体がずいぶん冷たくなってきた。煙草も燃え尽きた。

部屋にとって返し、雪上の道標という言葉を気に入って帰ってきた自分を恥じた。なんと安直な感性であろうか。

しかし僕の不安定な心はその言葉である方へ大きく傾いた。

つまり、帰ろう、と思ったのだ。

この雪山の上の宿を後にして、家に帰ろう。そうしてもう一度始めようというのだ。

可能だろうか。こんなに早く心が折れてしまった僕に、もう一度何かを目指すことができるだろうか。僕は何者かになれるのだろうか。これでいいのだろうか。

そんなことは考える。しかし単純な話だ。この隔離生活に耐えかねた。もう帰ろう。

いつになるだろう。早めに言おう。今日決めた。今月中に帰れたら嬉しい。

生活を夢見ていろいろと調べる日々を続けていた。安定した住処で、安定した仕事をすること。

いろいろ考えた末、やはり諦めた。

旅人になろう。そのためのチャンスが僕には今普通に暮らしてきた人たちよりも多くある。

旅人になろうと思う。まずは帰ろう。それから考えよう。ただもうここに居続けることはできない。心が疲れた。去ろう。去ろうかどうか悩む時間が無駄だ。去ろう。ただちに。逃げる。それでいい。いままでずっとそうしてきた。今更なんだっていうんだ。この地を去る。何ができたわけではない。恥が残っただけだ。それでもいい。去ろう。

ハッピースタンプ

ハッピースタンプ

 刈谷信一が釈放された日は天気の良い土曜日で、迎えに来た母に連れて行かれたイオンモールは家族ずれでとても混み合っていた。フードコートで食べたステーキは硬くて筋張っていたので飲み込むのに苦労した。母が紙幣で支払いをすませるのを見て、信一は深い感慨を覚えた。あたりまえのように使える紙幣。立派なものだ。俺のこしらえた紙幣はどうしてあんなに簡単に偽物だってばれたのだろう?これで二度目だ。三度目はないとあのデブの刑務官にも強く言われた。あいつのワキガは心底臭かった。ここは子供がうるさいがあいつのワキガが香ってこないだけで天国だ。

「母さん、そんなに無理しなくていいんだよ。俺は今ある服で十分だから。それより少しは化粧をしなよ、まだ四十になったばっかりでしょ?」

「母さんのことなんてどうでもいいんだよ。あんたには昔からいろいろと不便をかけたからね。今日はお祝いだから、お金のことは気にしなくていいんだよ」

 信一は特に気に入ったわけではなかったが母の勧めを無下に断るのも申し訳なかったので彼女が似合うといった服を三着ほど買ってもらった。はやくイオンモールを去りたかった。まわりの声が耳に痛すぎる。どこをみても疎外感しか感じなかった。

「母さん、もう帰ろうよ」

「そう?じゃあドーナツでも買って帰る?」

「ああ、そうだね」

 できるだけ母の好きなようにさせようと思った。断ることにも体力は使うのだ。久しぶりの再会なのに、意味のないことで怒鳴りつけるのも馬鹿らしい。それにしても、と信一は伸びをしながらあたりを見回した。こんなにも店がたくさんあるのに、俺の興味を引くものは何一つないんだな。いったいここに来ているやつらは何が目的なんだろうか?休日はイオンモールに行くという宗教でもあるのか?まさか、そんなわけはない。でもあの嘘つきのおばさんがいつの間にか野党のトップになっている日本だし、そんなありえないことも簡単に否定できない気もする。相変わらず馬鹿げた世界だ。

 もしかするとこいつらみんなロボットなんじゃないだろうか。みんな似たような服着て似たような髪型で、どうでもいいようなものを嬉しそうに選びあっている。いったい何が目的だ?俺への宣伝か?そりゃたいしたことだ。もし何も買わずにイオンモールから出ていたら、こいつらみんな急に無表情になって追いかけてきたりして。なぜ買わないんだ、なぜ同じようにしないのだ。

 信一がそんな妄想をしながら目の前を行き過ぎる何組みもの家族連れを見送っていると、母がドーナツの箱を下げて店から出てきた。

「母さん、俺が持つよ」

「あら、ありがとね。あんたは昔から優しい子だねえ」

「母さん、俺はもうガキじゃないんだよ。それよりその切手はなんだい?」

「ああ、これはねハッピースタンプっていって、集めると何でももらえるのさ。さっきあんたの服も買ったから、今日は結構集まったよ」

 嬉しそうに笑う母からキャラクター柄の切手を受け取ると、信一は体に衝撃が走るのを感じた。これだ!

「これ集めるといったい何がもらえるんだい?」

 手の震えを懸命に抑えながら信一は母に尋ねた。

「ああ、丁度あそこにカタログがあるよ」

 古びれたアパートに帰り着いた信一はその切手をじっくりと観察した。これならいけそうだ。紙幣の複製には技術的な問題がありすぎたが、この切手なら簡単にコピーできるはずだ。前に切手の複製は試したことがあるから、裏側の糊もまだ在庫があるはずだ。

「信一、今日の晩御飯は唐揚げでいいかい?」

「もちろん!それよりも母さん、どんな家に住みたい?」

 キョトンとする母に満面の笑みを送り、信一は寝室へ向かった。そして一時間後には布団はコピーされたハッピースタンプに埋もれて見えなくなっていた。

「そうだねえ、母さんは海が見える家に住んでみたかったんだ」

「でも津波が来るかもしれないよ?」

「そうだねえ。だけどそんなに長生きしても仕方ないしねえ」

「またそんなこと言って、俺を一人にしないでくれよ」

 熱々の唐揚げを頬張る信一たちは実に楽しそうだった。隣の寝室ではコピー機がハッピースタンプの複製を生み出し続けている。二人はコピー機の騒音に負けないように声を張り上げて話していた。テレビはないが、ハッピースタンプのカタログが二人に夢を語っていた。

「この家なんてどうだい?」

 食後のタバコを吹かしながら母はカタログに載っている家の一つを信一に示した。海を眺められるデッキが印象的な写真だった。切り取ったハッピースタンプに糊を塗り、舌で舐めて台紙に貼り付ける。そんな作業を続けながら信一は「いいね」と頷いた。

「そこは何枚で貰えるんだい?」

「2500万枚って書いてあるね」

「そうか、今何枚だっけな」

「馬鹿だねえ、今さっき1200枚って言ってただろうに」

「あぶねえ、あぶねえ」

 そういって信一は舌をぺろっと出した。真緑のグロテスクな舌。真似して出した母の舌も同じ色をしていた。なんだか子供に戻ったみたいで、お互いを指差して笑った。

 もう一枚切手を舐めて、台紙に貼り付ける。

 あと2499万8799枚で母さんに家をプレゼントできる。その次は車だ。あれは確か500万枚でよかったはず。でもとりあえずは家だ。これであと2499万8798枚……。

あとがき

この習作はスティーブンキングがたしか小学生くらいの時に書いた物語の真似だったと思います。

いつ書いたっけな。結構前。

まどろみの嫌悪

2018年12月28日

喉の渇きで目を覚ました。布団に包まったまま腕を伸ばし顔の横にあるはずのiPhoneを探す。画面の明るさに目をすがめた。時刻はまだ五時台を示していた。

もう少し眠れる。もう少し、もう少しと布団から出ることを先送りにしているうちに、いつも遅刻ぎりぎりの時間になってしまう。住み込みの仕事場で、布団から出て五分で支度してすぐ仕事に取りかかることができる。

だから今日も僕は寒そうな外の風の音を聞きながら何度も何度も夢とうつつを行ったり来たり。そういう時にみる夢は妙に現実めいていて、どこか息苦しくなる。というのも、僕はうつぶせに寝る癖があるので、そのせいではないかと思われる。

どんな夢を見ていたのかは覚えていない。それでもその時自分が感じていた胸苦しさだけは克明に残ってしまうのだから、毎日毎日寝起きはすこぶる悪い。自分の思っている自分自身の嫌な部分を僕の夢は明確なビジョンに変換して提示してくれる。なんともありがたいことだ。

無意識というものはいったい僕をどうしたいのだろうか。自分というものが存在するとして、この無意識というものも僕自身なのではないのか?なのにどうして自分を苦しめるような真似をするのだろうか、さっぱりわからない。

昨日の夢は覚えている。何か思わせぶりな態度で周囲の人に接し、いろんな思い切った決断を下していく僕自身の夢だった。そして夢の最後に僕はまわりにいる人たちに向けてまるで復讐を成し遂げるような気持ちで自分が白血病であることを告げる。

どうしてそんな夢を見たのだろう。意味深な夢を見た時僕は目が覚めてすぐにグーグルで夢占いのサイトを検索するのだが、そこには白血病の夢は「現実に耐えられず逃げ出したい気持ちを示している」と書かれていた。

僕の見る夢の診断結果はだいたいにおいて「現実から逃げ出したい」というようなことが書いてある。そしてそれはたいてい当たっている。自分で選んでそこに生きているはずなのに、僕はいつもその場所のことを嫌っていた。それは僕がいつもやるべきことをやらずに被害者意識を持って逃げ続けているせいだ。

僕はいったいどこへ行きたいのだろう。何がしたいのだろう。さっぱりわからない。

やりたいことはたくさんある。しかしそのどれもが心から願っていることなのかと問われれば、頷くことはできない。表面的な興味にすぎないようなことばかりだ。

そんな相談をすれば、たいていの人は「やってみればいい」とアドバイスをしてくれる。実際にやってみないとわからないじゃないかと。そんなことはわかっている。僕だって何かやりたいのだ。しかしその一歩目をどっちへどれだけ踏み出せばいいのかさっぱりわからない。振り上げた足を下ろす場所がわからずバランスを崩していつも転んでしまう。そして何もできないままここまできてしまった。

今年も残すところあと三日。僕はどう生き、何を変えることができたのだろうか。何もできていない。十年以上も停滞の日々を送っている。十年あれば世界は大きく変わる。十歳の小学生が成人するのだ。その間僕はいったい何をしたのだ?心に強く残る情景など一つも思い浮かばない。

あと三日。その間に何かを変えることができるだろうか。いや、そうやって、急速な変化を望むようなところがいけないのだろう。すぐに結果を欲しがる。必要なのは忍耐だ。コツコツと明確な意思を持って日々を積み重ねる忍耐。

けれど僕はどこへ向かって何を積み上げればいいのかさっぱりわからない。土台のないまま時間がこぼれ落ちていくのをただ嘆き続けていただけだ。

そういうのはもうやめたいのだが、しかし何をすればいいのだろう。どこへ行きたいのだろう。死にたいわけではない。ただ生きる方法がわからない。現実はそんなに深刻でドラマチックではない。わかっているのだが、そんな考えに囚われ続けている。

2019年にやること

2019年にやると決まっていることを記す。

まず1月10日締め切りの「アンデルセンのメルヘン大賞」に応募する。

次に1月末締め切りのアガサクリスティー賞に応募する。

 

そしてこれが本命となるのだが、3月末締め切りの新潮新人賞に応募する。

これをとりたい。今の所この賞に応募するための話は3つ構想があるが、まだどれも体をなしていない。自分がどれだけ本気で取り組もうとしているのかもはっきりとしない。

今この瞬間に本気で書かずにいつ書けるというのか。しかし考えは発散し、文章は途切れがちだ。何から始めればいいのか、どうすればプロとしてやっていけるレベルまで自分を持っていくことができるのかわからない。ただ書けばいいだけではないような気がしてきた。知識も考えも足りなさすぎる。

いや、時間はあるのだ。生きている限り。だから焦ることはないはずなのに、いつも何かに追われているような気がしていっぱいいっぱいになってしまう。そして書くことから逃げようとするのだ。

向き合わなければならない。

 

楽しいことを考えよう。

もしアンデルセンのメルヘン大賞を受賞できたらデンマーク旅行が付いてくる。パスポートは11月に取得済みだ。

落選しても、4月の長休みには海外旅行を計画している。タイへ行く予定だ。そこには大学時代からの友達がいて、彼の家に泊めてもらうことになっている。そしてタイ経由でミャンマーへひとり旅を決行し、チャイティーヨー・パゴダ、いわゆるゴールデンロックに金箔を貼り付けてくるのが目標だ。

僕はまだ日本を出たことがない。しかし僕は今、完全に自由だ。誰にも責任がない。だから僕は今こそ生きたいように生きるのだ。というわけで、2019年は旅人になる。決めた。

今旅行プランを練るためにいろんな人の旅ブログを巡回しているのだが、僕が想像していたよりもみんな自由に生きることを楽しんでいる。なら僕にもできるはずだ。

未知の世界への誓いを立てて、今日はこれくらいで終わりにします。おやすみなさい。

2018年を振り返る

もうすぐ2018年が終わりますね。

今年は何気にターニングポイントとなる1年だったかもしれません。

いろんなことが変わりました。

生活環境、仕事、これからやろうとすること。

恋をして、失恋して、出会い、別れ。

 

僕はアイドルが好きなのですが、

僕がライブに行っていたアイドル3つのうち

2つが解散して1つはメンバーが脱退しました。笑

オタク活動は今年でおしまいですね。

 

特に大きかったのは、ぷちぱすぽというアイドルが解散したこと。

僕はこのグループの千葉思佳さんのことが好きです。

ガチ恋ってやつですね。本当に好き。

 

僕は彼女に小説家になることを約束しました。

だから、ぷちぱすぽが解散した3月21日から僕は小説を本気で書き始めたのでした。

 

今思えば、いろんなことが、よかったなと思えます。

結婚しようと考えていた彼女に振られて死にかけたことも、

大学を辞めたことも、

思佳ちゃんに、会えなくなってしまったことも。

何もかもが、今の僕の背中を押してくれています。

夢へ向けて。

 

ようやく今、僕はとても自由な気持ちになれました。

自分がやりたいことをやることができる。

小説を書いて、旅をして、いろんな人に出会って、

いろんなものをこれから見て知っていきたいと思います。

 

生きることを楽しみたい。

そのためには楽をしていてはいけませんね。

生きねば。

 

とりあえず来年は海外旅行します!

タイとラオスとミャンマーにいく予定!

どうなることやら。

窓の向こう側

makotoです。

この小説はももクロが好きな僕が、ももクロの初主演映画「幕が上がる」

を見た頃に書いたもので、幕が上がるのスピンオフのような感じです。

なので小説「幕が上がる」を知らないとなんだこれって感じかもしれませんし、

今読むとすごく恥ずかしいですね。

でも青春小説書きたいんだよなあ。

もっと恥ずかしげもなく青春汁を絞り出したやつ。

 

とにかく「幕が上がる」はとてもいい映画だし、原作小説も

すごく好きなので、気になったらぜひ読んでみてください!

高校演劇の青春物語です。

窓の向こう側

 延々とトラックの周りを走り続けるグラウンドの男の子。そんなものを見続けて面白いのだろうか?もしかして、その陸上部の男の子のことが好きだったりするのか?それとも、ただやり場のない視線をそこに落としているだけなのだろうか。

 転校生の中西さんは、初日に窓際の席を割り当てられてから、ずっとそんな調子で窓の外を深刻そうな表情で見つめ続けていた。何を考えているのか全然わからない。しかも、その佇まいに、なぜだかわからないが不思議と醸し出されるオーラのようなものがあるのだ。だから、珍しい転校生に近づきたいクラスのみんなも、未だ声をかけられずにいる。ただ一人、アイツを除いて。

「なーかにーしさーん!一緒にごはん食べよ!」

 昼休み、授業中から忘我の表情でグラウンドを見つめ続けていた中西さんに、がるるがでっかい声で近づいていくのが見えた。あ、がるるっていうのはアイツのあだ名で、本当は西条美樹なんて綺麗な名前があるんだけれど、みんながそう呼ぶから、いつの間にか僕もそう呼ぶようになっていた。がるるは自分で「西条美樹なんて名前私には似合わないから」と笑っていたが、僕はそんなことないと思う。黙っていればがるるは結構美人なのだ。まあ、その黙っているっていうのがアイツにとってどれだけ難しいことかは、御察しの通りだが。

「亮平!早く行くぞ!」

「あ、おう!」

 どうしてがるるはあの中西さんの謎のバリアをものともせず話しかけられるのだろう。馬鹿だからあのバリアが見えないのだろうか?そういえばこの間も自転車で看板に突っ込んだとかいって額から流血して笑顔で登校してきたっけ。そんなことを思っていたら、浩介はもう教室の外だった。購買のパンは早く買いに行かないとクソみたいなやつしか残らないから、わりと怒り顔だ。

 三年生になって、受験を意識せずにはいられなくなった僕たちは、みんながみんな、ほんの少しずつイライラしているような気がする。自分の将来、夢、目標なんてものが明確な高校生なんて、ほんの一握りだ。僕も浩介もそれほど成績は悪くないし、志望大学は決まっていて、模試の結果も悩むほどではない。けれど、進路のことを具体的に考えれば考えるほど「それでいいのか?」という思いが強くなる。

 たぶん、もっとおもしろいものを期待しているんだと思う。もっと、刺激的で、予想ができない、ドラマティックな人生を。けれど、ちゃんと考えれば考えるほど、今後の人生が面白くなるようには思えない。安定はしているだろう。けれど、それだけだ。大学を卒業して、社会人になり、疲れて帰ってきては、お酒を飲んでテレビを見る。それも幸せだろう。けれど、それでいいのか?

 きっと、自分次第なんだろう。どんなところにでも、おもしろいと思えるようなものは見出せる、と思う。けれど、それには積極的にこの世界を生きようというエネルギーが必要で、そういったエネルギーの生み出し方は、今までの学校生活では教えらえていない。自分で見つけるしかないのだろう。そして、浩介も僕も、勉強はできても、そういった分野は苦手なんだ。

 そんなことを、昨日もスタバでひたすら話し合っていた。周りから見れば、何もやったことのない青臭いガキが、何を偉そうに語り合っているんだっていうところだっただろう。帰ってから客観視して、本気で赤面した。けれど、それは僕らの本音なんだ。ただ、そうやって恥ずかしげもなく話し合った結果、そんな僕らでも夢中になれるものが見つかった。

 それは、恋だ。

「で?ラインきけたの?」

「無理だろ、昨日の今日だし」

 カレーパンを頬張りながらため息をつくという器用な真似を見せる浩介。

「今絶対チャンスだと思うけどなー。まだ誰も中西さんのライン知らないんじゃないの?クラスのラインにもまだ入ってないってことは、小島もきけてないってことでしょ?アイツ委員長のくせにびびってやがんだな。やっぱただの内申書狙い野郎じゃダメだなー」

 僕は適当に同意しながら「がるるならきっともう知っているんだろうな」と思っていた。というか、浩介はがるるが中西さんにあんなに積極的に話しかけに行っていることに気づいていないのだろうか?

 気づいていないんだろうな。みんながみんな、受験、受験。自分のことで精一杯。なんせ、これからの人生のほとんどが、これから立ち向かう受験の合否で決まってしまう世の中なんだから。その枠から出られるのは、よほどの才能か行動力のある人たちだけ。いい意味でも悪い意味でも「普通」な僕たちの学校には、そんな特殊な奴はまずいない。

 いや、いなくもないか。そう、中西さんがいる。あの子だけは、受験という名のこの戦争を、どこか冷めた目で見ているような気がする。彼女のあの、我関せずといったような表情を見ていると、みんなと同じように生きるしかない自分が恥ずかしくなってくるのだ。自分たちは意味のない、馬鹿らしいことに精を出しているような気になってくる。中西さんは、いったい何者なのだろうか?

 浩介は、僕が中西さんに一目惚れしたと思っている。けれど、逆だ。僕は彼女の、普通の人たちの流れには無関心といったような態度が気にくわない。彼女は自分の中に、確信めいたものでも持っているのだろうか?そしてそれは、この世界が評価してくれるようなものとして、示すことができるのだろうか?

「あ、橋爪さんがいる」

 浩介の声に顔を上げると、隣のクラスの橋爪裕子と、誰だっけ、確か、高橋とかいう子がうちのクラスに来ていた。どうやら彼女たちはがるるに連れられて中西さんとお弁当を食べに来たみたいだ。けれど、橋爪さんはあまり乗り気じゃなさそうに見える。まあ、がるるは大雑把で強引だからな。そういえば、どうしてがるるが橋爪さんなんかと仲が良いんだっけか。ああ、そうだ、確かがるるも演劇部だったっけ。そういえば、中西さんは演劇部の強豪校から来たとか、前にがるるがはしゃいでた気もする。ということは、中西さんは女優なのか?それにしてもがるるは毎日めげずによくあの中西さんに突っ込んでいけるもんだ。昨日も弁当食べ終わったらすぐ図書館に行くってことで追い払われていたのに。

「やっぱかわいいよなー、好きな人とかいんのかな?」

 浩介は橋爪さんがかなりタイプらしく、一年生の時からずっと彼女のことばかり言っている。ずっと同じクラスになることを切望していたけれど、結局その願いが叶うことはなかった。二人の接触は、僕が覚えている限りでは一度だけ。体育祭のリレーで、浩介が彼女の前でこけた時だ。心配して優しい言葉をかける、というのが僕らの中での橋爪さん像だったのだが、彼女はなんと爆笑して「ナイス、がんばれ!」と親指を立てたのだ。それに対して浩介は満面の笑みで「はい!」と答え、彼女への想いをより一層強めたというのだから、僕にはよくわからん。

 それにしても、そうか、中西さんは女優になるのか。かわいいといえばかわいいし、確かに雰囲気はある。けれど、石原さとみみたいな華やかさがあるわけでもないし、スタイルが良いわけでもない。だとすると、相当演技力に自信があるのだろう。しかし、演技力なんて曖昧なものに高校生が自信なんか持てるのだろうか?普通の世界しか経験したことのない僕にはわからないのかもしれない。僕だって、小学生の時の夢にはサッカー選手とか書いていたけれど、そのときですらその姿をリアルに想像してその夢を信じきっていたわけではないのだ。サッカー選手って夢なら、プレーは周りと比較しやすいし、自分の位置も測りやすい。才能のある奴は自信をもってその道を進むことができるだろう。しかし演技力となると、自分の位置を正確に把握することは非常に困難なのではないか?僕の中で、ますます中西さんとの距離が広がったというか、リアリティーがなくなったというか、違和感が強まった。ただの馬鹿か、天才か。でも、そうじゃないと、夢なんか叶えられないのか。この世界のほとんどの人がそうであるように。僕なんて、自分の夢が何なのかすら、未だに分かっていないのだから。

 そんな風に事実確認もせず勝手に中西さんについていろいろと考えを巡らせ続けたまま、気がつけば夏休みがやってきて、僕は未だに浩介から中西さんのラインを聞くように促され続けていたが、案の定それは達成されていない。

 高校三年生の夏休みといえば、もちろん受験一色。夏期講習などでほとんど通常授業の時間割と同じくらい学校に通っている。それは、そんなある日のことだった。僕は昼間の空き時間、自習室以外でどこか静かに勉強できる場所を探していた。なんとなく、同じところで同じように目的もわからず勉強していることに息苦しさを感じ始めていたから。そして、美術室の前を通り過ぎたとき、その話が聞こえてきた。

「私だって、怖いよ」

 中西さんの声だった。教室の窓越しに見ると、演劇部の三年生が集まって何か話し合いをしていたみたいだ。

「だって、テストみたいに正解なんてないし、それを測る確かな指標すらないんだから。例えばさ、あそこ。陸上部の人たちが、ひたすらトラックの周りを走り続けている。何の迷いもなさそうな顔で。私、あれを見ててね、ああ、羨ましいなって、泣きそうになることがあるの。だって、彼らはその方法が正しいって知っていて、自分のやっていることに確信を持っているんだよ。確かに演劇にもさ、呼吸法とか、発声の仕方とか、正しくプラスになる訓練はあるけど、それだけじゃ何者にもなれないじゃん。自分で考えて、自分で見出して、そして、それを世間の人たちに認めさせなくちゃいけない。怖いよ。確信なんてないもん。それでも、やり続けるしかない。というか、演劇をやらなきゃ生きていけない、みたいなものになっちゃったんだから、仕方ないんだ。なんなんだろう、私、馬鹿なのかな?ごめん、なんか語っちゃった、橋爪さんの相談だったのに」

「いいよ、ありがとう。そうだよね。私も女優になりたいって思っていたけれど、自分がどれだけ本気でそう思っているのか確かめたことなかった。だから今、この進路でいいのか、迷っちゃってるんだよね。うん、ありがとう。私もそうだ、女優をしてなきゃ生きていけない、それくらいの覚悟じゃないと、この道は進めないんだよね」

 立ち聞きしてしまって悪いと思ったが、僕はこれほど真剣に人生を選択して生きている人たちを知らなかったから、そのまま聞き流すことができなかった。彼女たちに比べて、僕はどうだ?普通の人間なのに、変に意地を張ったりカッコつけたりして、普通と同じことをしていることが嫌だなんて思ったりして、なんて子供っぽいのだろう?顔が赤くなるのを感じ、僕は自習室へ引き返した。そう、普通に、みんなと同じ努力をして、その道から外れないようにしておかないと。僕みたいな、何も生み出せない人間は。

 あれからいろいろ考えた。自分の将来、夢、望み。わからないんだ。どうやって探しに行けばいいかすらわからない。だからダメなんだろう。あと、中西さんのことも考えた。初めはどこか現実味のない特別な子だと思っていたけれど、あの日聞いてしまった話からすると、彼女もやっぱり僕と同じ人間で、同じ世界で同じように悩み、それでも夢を信じて行動している子なんだって。自分のダメさ加減にイライラする。どうすれば変われるのだろう。わからない。変わりたいのか?そう、僕は変わりたいんだ。何かを大きく変えたい。もっと生き生きと、積極的にこの世界を生きたいんだ。

 そして、夏休みが終わり、二学期が始まってしばらくしてから、僕は決意を固めた。

「よし、いくぞ」

「お、おうよ」

 浩介もかなり緊張しているみたいだ。なんといっても、二年以上片思いしている橋爪さんがいるのだから。夏休み明けから、中西さんの雰囲気が突然明るくなった。そして、演劇部の四人がうちのクラスで机をくっつけて弁当を食べるようになっていた。僕たち二人は、そこに乗り込もうというのだ。

 弁当を持って近づくにつれ、鼓動がどんどん高まる。周りの目も気になるし、反応次第では明日学校来れるかどうかも正直怪しい。けれど、当たり前のように何事もなく流れ過ぎていくこの学校生活に、自分から干渉してやるんだ。機会を待ち続けるのはもうやめた。これからは、何かが見つかるまで、ぶつかり続けていこうと、男二人で手を握り合い、スタバで語り合ったのだ。おそらくその光景は、かなり気色悪かったことだろう。

「あの!」

「あー亮平じゃん、なになに?なんかあったの?」

 さすががるる、良い反応をしてくれた。

「俺たちも一緒に弁当食べていいですか!」

 僕たちはもう、やけくそになって、なぜか弁当を差し出しながら深く頭を下げた。どんな顔をされているのか、見るのが怖かったし、周りにどんな目で見られているのかも怖かった。けれど、よくわからない興奮とワクワクに包まれていて、もう、なるようになれって感じ。

「え!どういうこと?!そういうこと?え!なにか始まっちゃうの?受験だよ?これから私たち受験があるし、大会もあって!え!いいの?なにか始まっちゃっていいの?青い春とかいて青春みたいななんか甘酸っぱいものが漂ってきちゃう気がしちゃうんですけど!え?誰と誰?何が何だか!」

 ちらりと顔を上げると、突然のことに騒ぎ出すがるると、それをなだめる高橋さん。中西さんと橋爪さんは、そんながるるたちをみて笑っていた。と、中西さんと目があう。

「だめかな?」

「いいんじゃない?」

 な、なんだこの落ち着きは!こっちが拍子抜けするくらいの調子で、中西さんは微笑んだ。なんだろう、やっぱり彼女、この夏休みで何かが変わった気がする。余裕ができたというか、物腰が柔らかくなっていて、錯覚だろうか、体の輪郭すら、うっすらと輝いているような、そんな気までしてきた。「いいの!?」と騒ぎ立てるがるるのおかげで、なんだか僕は少し落ち着いてきて「ありがとう」くらい言えたのだが、チキンの浩介が「じゃあ明日からよろしくお願いします!」と頭を下げたので、小躍りしながら教室を飛び出していくことになった。

 ああ、楽しいな。うん、楽しい。自分が何を望んでこういった行動を起こしたのかもわからないし、この先どういう未来を歩みたいのかもわからない。でも、今この瞬間を楽しいと思えるのなら、あながち間違った行動は取っていないように思う。きっとこの先も、いろいろと迷って、間違えて、後悔するだろう。でも、今を楽しく生きるということを忘れなければ、そんなに間違った場所には行かない気がする。今はとりあえず、それでいいか。それにしても、明日が楽しみだ。こんな気分は、ずいぶん久しぶりな気がする。笑顔が止まらない。

END

星の軌跡

こんにちは、makotoです。

この小説は漫画「プラネテス」のパロディのようなものです。

 

これから新人賞に応募していない習作をこちらにのせていこうと思っています。

ただ、今のところ書いたものはほとんどなんらかの新人賞の結果待ち状態であまりのせるものがないという。

今書いているものも応募用の話だし。

なので結果が出る五月ごろから更新していくことになるかと思われます。

星の軌跡

「だって、好きなら何よりもまずそばにいないといけないと思う」

あの日、ロイはアリスに自分でそう言った。それは彼の今までの経験によって導き出された考えだった。ロイにとって誰かのことを好きになるというのは、何よりもその相手を優先するという意味で、彼は実際そのために大学を中退したことすらあった。そして船乗りとなり、宇宙を気ままに旅する生活を送るようになった彼は、もう自分が誰かを本気で好きになることはないのだろうと思っていた。しかしそれは間違いだった。

「信じていれば、距離は関係ないんじゃない?」

アリスはそう言った。しかし、彼女自身があまり人を信じられないというのだから、そんな言葉にどれほどの意味があるのかはわからなかった。それでもロイの心は喜びに満ち溢れていた。彼はその時まだ気がついていなかったが、まっすぐに目を覗き込んでくるその女性のことをどうしようもなく愛し始めていた。理由は彼にもわからなかった。アリスは、月面軌道上にある国際宇宙ステーションの管制塔で、ロイのような船乗りたちに指示を出していた。ロイは初めて彼女の指示を受けた時から、その声が好きだと思っていた。ユーモアに溢れた彼女とのやりとりは寄港の際の楽しみ、というよりも、もはやその声を聞くためにこのステーションに寄り道するようになっていたのかもしれない。しかし、ロイはしばらく拠点を火星に移すことが決まった。だから最後の記念にと思い、管制塔との会話の際に、冗談めかしてアリスを食事に誘ったのだった。しばしの無言の後、回線が切れた。しまった、と思ったが、まあいいか、とも思っていた。自分は遠くへ行くのだし。その時、プライベート回線から通信希望が届いた。ロイの胸は高鳴った。画面上で明滅する承認ボタンをゆっくりとタップする。聞こえてきたのは、愛しい彼女の声だった。

ロイが彼女について知っていることと言えば、その声が魅せる表情の豊かさと悪戯なユーモアだけだった。その日、待ち合わせの場所に現れた彼女をみて、彼は何故か強く胸が痛むのを感じた。アリスが今そこにいて、彼はその隣を歩いている。そのことが、悲しかった。ロイは宇宙を漂う根無し草の生活を続ける自分を強く恥じた。それは彼自身が憧れ望んだ職業だったのだが、今彼は、故郷を持つことに強い憧れを抱いていた。ある場所に生活の根を下ろし、大切な人々との繰り返される日々を愛する。そんな憧れに胸を焦がした。しかし、彼はもう選んでしまった。変えられるのだろうか?そして、変えたとして、自分がそれに満足し続けることができるのだろうか?そんなことを考え、結局彼は、自分が自分自身以上に大切にできる人はいないと思ってしまうのだった。

フォークを口に運ぶアリスを、ロイは惚けたように見つめていた。彼女が目の前にいる、そのことが、今という瞬間の現実感を奪い、ロイは夢を見ているように頭がはっきりとしなかった。

「ねえ、ちゃんと聞いてる?」
「ああ、聞いてるよ。何か、徴が欲しいんだろう?」

徴か、とアリスは彼の言葉を繰り返した。

「そうかもしれない。私は、それが私じゃなきゃいけない徴が欲しい。自分に自信がないから。そこにいてもいいんだってくらいじゃ不安。私がそこにいなくちゃいけないくらいのものがなきゃ、怖いのかもしれない」

ロイには「そうだね」と頷くことしかできなかった。彼に何が言えよう?目の前で笑い、悩み、目を見つめてくれる彼女に、自分が火星へ旅立つことすら言い出すことの出来ない彼に。火星行きは、ずいぶん前から彼が憧れていたことだった。ようやくそれが実現しようとした時に、彼はもう自分がそこへ行きたいとは思っていないことに気がついてしまったのだ。しかし、一度決めたことを今更取り消すわけにもいかない。そうだろうか?ロイにはもうわからなくなっていた。自分が本当に必要としていることは、一体何だったのだろうか。

アリスを居住区まで送り、ロイは自分の船がある無重力区へ向かった。今朝も医者からまた骨粗鬆症の初期段階であると警告を受けていたが、そうは言っても自分の船以外に眠る場所もないのだし仕方がなかった。シャワー室で体を流し、乾燥室で風に吹かれている間も、ロイは自分がいったい何をどうしようとしているのかさっぱりわからなかった。昨日まで、自分は航路を迷いなく選択していたはずだ。その先がたとえ間違いでも、それは自分だけの問題だった。壁を蹴り、仮眠室にたどり着くまでの等速直線運動で、ロイはついに気がついた。つまり、そういうことなのだ。彼はもう、自分の選択を自分自身だけのものだとは考えられなくなっていた。彼は、恋をしていた。どうしようもなく。

「火星に行く前に、もう一度会ってくれないか」

通信機の向こうでは、またもや無言が続いていた。ロイはモニタに映る国際宇宙ステーションの円環を見つめていた。遠心重力を生み出しながら回転するそれは、宇宙という深海に浮遊する海月のようだった。月面基地が近づいてきた。ロイの宇宙船は自動操縦に切り替わり、着陸態勢に入る。その時、ロイの耳はノイズを感じた。彼女が話し出すよりも前に。

「わかったわ。三日後の夜、こっちに来られる?でも、何時になるかわからないから」
「行くよ」

直後に月面からの通信が入り、ロイは自分が運んできたデブリ、いわゆる宇宙ゴミの積載量を正確に伝えた。彼の仕事はデブリの回収だった。つまり、ゴミ収集車のような仕事だ。人間の宇宙進出に伴い、宇宙空間の環境汚染は大きな問題となっていた。各国が打ち上げ放題の衛星の残骸や、事故で飛散した部品などが、時速数千キロにまで加速され、ステーションや宇宙船を襲う。そうなる前に、ロイたちのようなデブリ屋が宇宙ゴミを回収するのだが、それにしてもきりがない仕事でむなしくなることもあった。

「坊、火星へはいつ向かうんだね」

機体の点検をしていると、整備士のシゲルが推進剤で向きを変えて近づいてきた。もういい歳のくせにその身のこなしは船外活動のスペシャリストであるロイでも惚れ惚れするほど無駄がない。

「五日後です。じいさんともしばらくお別れですね」
「薄情なやつめ」

シゲルはロイの肩に手を置くと、つーっと船体の上部へ上がっていき、デブリにやられた装甲板を撫でた。ロイは宇宙服の中で苦笑を漏らし、ごめんなさいと呟いた。自分は、いろんな人に感謝しないといけない。それはわかっているのだが、うまくできなかった。ロイにはわからなかった。どこで笑っていても、いつも自分には居場所がないと思っていた。どんなことでも結局自分には関係のないことのように思えて仕方がなかった。おそらく、自分に居場所がないというのではなくて、自分自身というものが彼には存在しなかったのだろう。だからどんなことも他人事のようにしか感じることが出来ず、へらへらと笑って過ごしてしまう。

火星行きのための健康診断書を受け取りに月面基地の病院内を歩いていたロイは、突然後ろから抱きつかれてよろめいた。

「お兄さん!」
「スズちゃん、おはよう」

腰のあたりを振り返ると、小さなかわいらしい少女が怒ったような泣き顔をしていた。後ろからスズの姉であるアユハが「月面時間はもうすぐ夜だよ、おじさん」と言いながら歩いてきた。

「おじさんって言うな」
「お兄さん、火星に行っちゃうって、ほんとなの?」

ロイはしゃがみこんでスズと目線を合わせ、目に涙を溜める少女の頭を優しく撫でた。

「うん、ごめんな」
「やだ!」

首に抱きついてくるスズをそのまま抱き上げて立ち上がった。アユハが大人ぶって肩をすくめて見せるので、ロイは思わず笑ってしまう。ごめんな、ともう一度心の中で呟いた。もしかすると、スズとの別れが一番胸に痛いかもしれない。スズと出会ったのは、去年ロイが自暴自棄になっていた頃だった。トレーニングをサボっていたせいで骨粗鬆症気味になり、足を捻っただけで骨折して入院することになった。病室の入り口から頭だけ出してこちらを覗き込んでくる少女二人に向けて、ロイは昔日本の宇宙ステーションに滞在させてもらった時に習った折り紙で飛行機を作って飛ばしてやった。医療の進歩で骨折自体は数日で治ったのだが、彼の心が回復したのは、お兄さんと言って毎日駆け寄ってきてくれたスズの笑顔のおかげだった。数年後、もし帰ってきたとして、この小さな少女は自分のことを覚えているだろうか。自分はもしかすると、とても大切なものに気づかないまま日々を浪費しているのではないだろうか。いったい自分はどこへ行き、何を手に入れたいと望んでいるのだろう。

スズが泣き止むまで、ロイはアユハの手を引いてしばらく院内を散歩した。アユハは月面で一番評判のいい私立小学校への進学が決まったらしいが、そこの制服が気に入らないと拗ねていた。それから、エスカレーター式の中学に進めば、修学旅行で火星に行くという話もした。

「九年後かあ、遠いなあ」
「あっという間かもしれないよ、宇宙じゃ時間が歪むからね」
「お、さすが有名私立小学生。でも五歳児に言われてもなあ」
「ま、その頃ロイは本当におじさんになってるね」

最後まで生意気なアユハにロイは救われていた。胸の上でしゃっくりが止まらないスズのことを思うと、もう連れて行きたいくらいだった。しかし、彼女たちにはそれぞれの人生があり、それはまだ始まったばかりだった。輝かしい未来の卵を、自分のような人間が持ち去っていいはずがなかった。幸せになってほしい、と心から願った。星はいくらでもあったので、どうかこの願いだけは叶えてほしい。

泣き止んだスズとアユハにアイスを買ってあげ、三人は地球の見える窓辺に座った。青い星はやはりロイの心の故郷であった。しかし隣に座る二人は違った。彼女たちにとって、地球は行ってみたい場所に過ぎない。彼女たちの故郷は、この月面だった。月で生まれた少女たち。地球を知らず、海を知らず、青空も夕焼けも知らない。深淵のような黒い空間が生まれた時から彼女たちを包み込んでいて、人間の科学技術で保護された環境しか知らない。しかし、その笑顔はロイに地球から見た太陽を思い出させ、彼の心を温めた。彼女たちは自分たちの世界を愛していた。それなのに、地球で生まれたロイは、何かから逃れるように宇宙へ飛び出し、そこでも居場所を見つけられないと思い込み、もっと遠くへ行こうとしていた。

「スズちゃんに、これをあげる」

ロイはバッグから、貝殻でできたペンダントを取り出した。それは、彼が先月、デブリ回収の際に見つけたものだった。きっと、いつかの旅客機事故の遺留品なのだろう。そんなものを、と自分でも思ったが、何か地球にまつわるものを少女にプレゼントしたかった。かと言って、スケジュール的に地球に戻っている時間もなかったし、地球由来のものは月面では馬鹿らしくなるほど高い。スズの首にかけてあげると、少女はその貝を開いて見つめていた。それから姉に何かを尋ね、頷くと、自分でペンダントを外し、ロイに返した。

「いらないの?」
「お兄さんに持っててほしいの」

あ、ちょっと待って、と言って、スズは貝殻に口づけした。

「私たちの空は、願い事かけ放題だからね」

アユハがスズの頭を撫でながらそう言った。わけがわからないロイは、自分も貝殻を開いて見てみた。そこには「save you」と綴られていた。ロイは、涙が溢れることに逆らわなかった。誰かを守れなかったそのペンダントの想いを、自分なんかが受け取ってもいいのだろうか。しかし、スズの心は、この世で心から信じられるものだった。だから、自分はそれにすがろうと思った。そして、ロイは自分が探しているものに気がついた。自分は、そんなお守りがこの世界に欲しかったのだ。絶対に信じられるものが、欲しかった。それが今、目の前にいるのに、自分は彼女たちを置いて、遠くへ行こうとしている。何をしているのだろう。

少女たちと別れ、診断書を受け取って船室に戻ったロイは、二人からもらった折り紙の鶴を目の前に浮かせ、ぼんやりと考えた。自分は、アリスに何を求めようとしているのだろう。あの日、アリスと過ごした時間は、まるで幼馴染と再会したように心地よく、ずっとそばにいたいと思った。彼女の話す言葉から、彼女の優しさや賢さが溢れ出し、そのどれもをロイは尊敬した。アリスと一緒にいれば、自分も少しはいい人間になれそうな気がしたのだ。アリスは、まるでかわいいピエロのような女性だった。人の心が見えすぎるから、相手の望む自分を演じ、みんなを楽しませるエンターテイナーになることができた。そして、そのことを彼女自身も楽しんでいた。ロイは自分が鈍感でとろくさいと思っていたので、頭の回転の早い彼女に憧れた。それでも、彼女自身は、本当の自分を見つけてもらいたいと思っているのではないか。アリスと話しながら、ロイはそんなことを思い、自分ならそれができると思った。それはひどい思い上がりかもしれなかったが、アリスのそばで、アリスの全てを愛したいと、今の彼は思っていたのだった。それなのに、彼は火星に行く。どうしてなのだろう。

自分はいつも、与えられてばかりだ。折り鶴を眺めながら、ロイは唇をかんだ。いったい自分に、何ができるのだろう。みんな幸せになってほしい。しかし、どうすればいいのかわからなかった。自分はやっぱり、誰とも関わらない方がいいのだろうか。誰とも関わらず、独りで生き、独りで死んだ方が。違う。いろんな人の想いを、自分は感じているはずだ。知っているはずなんだ。愛を、感謝を。それなのに、どうして知らないふりをしようとするのだろう。何かを返せる自信がないからだろうか。こんなに遠くまで来て、いったい何をしているのだろう。

 

「たまたまなんじゃないの」

アリスは目を伏せてそう言った。

「たまたま私だっただけで、あなたは結局、誰でもよかったんじゃないのかって、思う」

そして、また彼は、何も言えることがないのだった。

「あなたの言うことを、信じたいとは思う。けれど、人間ってそんなにドラマチックに出来てないんじゃない?あなたは、どうして私を好きになったの?」

アリスは待った。彼女が待ってくれることに、ロイは胸を痛めた。だから、考えがまとまらなくても、言葉を紡ごうとした。「傲慢なことを言うと、僕は君を救いたいと思ったんだ」言いながら、違う、と思った。救われたいのは自分の方だ。

「救う?」
「君は、とても優しくて、素敵な人だと思う。けれど、誰かを信じきって何かをぶつけることが出来ないような気がしたんだ。僕は、ありのままの君を受け止めたいと思った」
「私のこと、何も知らないくせに」
「うん。だけど、君となら、僕は何かを信じられそうな気がしたんだ。僕はきっと、それが欲しくて、こんなところまで来たんだと思う。そして、これから火星にまで行ってしまうんだと思う。ねえ、君も同じものを探していたんじゃない?」

アリスはロイの目をまっすぐに見た。ロイは、今だけは目が揺れないでほしいと思った。全てを真実にしたい。どんなロマンチックなことでも、今ここでだけは夢でなく、現実であってほしい。

「絶対に信じられるものなんて、ないと思う」
「僕もそう思う。だから、君とそれをつくりたいんだ。見つけるんじゃなくて、いっしょに、それを生み出したいと思ったんだ。だから僕は火星に行く。君を愛し、信じているということを証明するために」

アリスは悲しそうに笑った。ロイも、自分がおかしなことを言っていることに気づいていた。それでも、それを信じたかった。

「私をあなたの傲慢な実験に使わないで。あなたはやっぱり、自分のことしか考えてないのね」
「……そうかもしれない。僕は結局、君を利用しようとしているに過ぎないのかもしれない。だから、誰とも関わるべきじゃないんだ。それでも、僕は弱いから、誰かを求めてしまう」
「ダメな人」
「自分でもそう思う」
「誰でもいいんだ」
「違う、君じゃないとダメだ」
「信じられない」
「君となら、絶対を信じられると、思ったんだよ」

宇宙みたいな沈黙が二人を包み込んだ。その中で、ロイは彼女の怒りと、悲しみと、そして愛を聴いていた。自分の言葉は間違っていた。救いたい、なんて、そんな言い方をするべきではなかった。そうじゃないんだ。今自分の胸の内にあるのは、何かもっと素敵なもののはずなのに、言葉にしてしまうと、それは陳腐で、傲慢で、嘘くさいものになってしまう。それが憎かった。できれば何も言いたくなかった。けれどそれでは、繋がることができない。そうだろうか?目を合わし、手を取って、抱きしめれば、全てが伝わるのではないか。わからない。自分はきっと、ずっと、怖がっているのだろう。誰かに理解されないことを。だからできるだけ、人と関わらないように、逃げ続けてきた。しかし理解など、本当に必要なのか?他人を完全に理解することなど不可能だ。それがわかっているのに、どうしてそんなものを求めてしまうのだろう。誤解され、歪められても、自分はここにいるではないか。きっと、そうだ、自分は、自分がどこにいるのかわからないから、そんな歪曲が怖いのだろう。地を離れ、わけもなく自ら遠くを目指したのに、地に足をついていない不安に飲まれそうになっている。還る場所が欲しかった。この宇宙の中で、見上げればいつもそこにある、不動の太陽のような。そんな神様みたいなものを誰かに求めるのは、やはり許されないことなのだろうか。違う、そんなものではないのだ。思考に歪められてはいけない。自分の心が感じているのは、ただ彼女を求める、その笑顔を、その幸福を共に感じたいと願う、そんな、意図のない想いのはずなのに。考えるほど、真実から遠ざかる。理由付けできるようなものではないのに。心の声は、現実という名の批評に耐えられなくなる。それでも、ここにあるものは、本当なんだと、叫びたかった。

「ごめん、僕の言ったことは、間違いだった」
「間違い?」
「君を救いたいとか、利用しようとしているとか、なんだかんだわけのわからないことを言ったけど、そうじゃない」

アリスの大きな瞳だけを見て、ロイは言葉を続けた。

「僕はただ、どうしようもなく、君が好きなんだ。一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に怖がりながら、一緒に生きたいんだ。理由は、わからない。きっと、そんなものないんだと思う。ただ、どうしようもなく、僕の心が君を求めているんだ。どうして君なのか、それもわからない。この想いは、僕に制御できるものではないんだ。確かに、僕は君のことを何も知らないかもしれない。でも、そんなこと問題じゃないんだよ。それは理解や、時間を越えたものなんだ。うまく説明できなくてごめん。ただ、信じてほしい。僕が君を、愛しているということを。理解できないかもしれないけれど、君はそれを信じるという選択もできるし、信じないという選択もできる。君は自由で、僕も自由だ。けれど、僕の中では、僕が君を愛しているということは、確かな事実なんだ。それが僕の世界だ」

それから、二人はしばらくの間、何も言わずに見つめあっていた。やがて、アリスは呆れたようにふっと笑った。すると、何かが崩壊するように、その笑いは広がっていき、最後には腹を抱えて笑うことになった。

「大丈夫?」
「大丈夫なわけ、ないでしょ。もう、わけわかんないよ。ねえ、ロイ、あなたは本当に……」
「……本当に?」

アリスは笑い過ぎて溢れた涙をぬぐいながら僕を見つめた。

「本当に、子供みたいなんだから」
「……ごめん」
「でも、それがあなたのいいところなのかも、しれないわね」
「わかんないよ、どうしたらいいのか」
「どうにもできないわよ、いまさら」

拗ねたように俯くロイを見て、アリスは軽やかに笑った。さっきまでの重苦しい空気は、どこかへ流れ去っていた。

「あなたの世界のことは、信じてあげる。けれど、私は私の世界を生きているからね。そのことを、あなたは理解しないといけない」
「うん」
「私は、この世界を楽しみたいの。あなたがどこか遠くで私を想って頑張っているからって、遠慮して粛々と過ごしたりしない。わかる?」
「うん」
「素敵な出会いがあったら、私はそのチャンスを逃すつもりはないし、楽しいことをみつけたら、全力で飛び込みたい。私は、あなたに何も約束しないから」
「それが、正しいと思う」
「うん、あなたならそう言うと思った。けれど、もっと自信を持ちなさいよ。信じてっていうのなら、もっと欲張りなさい。どこにもいかないで、君がいなきゃダメなんだって。そんなんじゃ、私はすぐにどこかへ飛んで行ってしまうわよ。私はね、そんなに安くないの。前払金もなしにキープしておけるような女じゃない」
「でも、君がこの世界を楽しむことを止める権利はないよ」
「そう、そんな権利は誰にもない。私は私の世界を生きている。けどね、スタンスの問題よ。あなたがたとえ、私を縛りつけるようなことを言ったとしても、私はこの世界を自由に楽しむ。けれど、あなたは私を求めているんだから、そう言わないといけないと思うの」

ロイが悲しそうな表情をするのを見て、アリスはなんだか楽しくなってきた。

「そんな顔しないの。あなたは、自分を信じろって言うくせに、私のことは全然信じようとしないのね」
「ごめんなさい」
「本当に、子供みたいで、夢見たいな人。けれど、これから全部、本当にしていくんでしょ?」
「うん。全部。本当にする」
「なら、前だけ向いて、自分にできることを全力でやりなさい。あなたにできることを。あなたにしかできないことを。その先に私がいるのかどうかは、そこへ行くまでわからない。けれど、そこまで行かないと、絶対私には会えないよ。わかった?」
「どれだけ遠くへ行っても、僕は君を想うよ」
「火星との通信誤差は四分二十七秒。あなたがあっちへ行けば、私たちはいつも四分二十七秒ずれた世界を生きるわけ」
「けれど、僕の想いは光速を越えて、いつだって君のそばで君を想っている」
「言うのは簡単。だから、証明してみせて。楽しみにしてる」
「わかった」

それ以上、もう何も言うべきことはなかった。あとは、行動し、生活し、世界を紡いでいく。言葉は、手段に過ぎない。愛というものが本当にあったとしても、それは言葉を越えたものだろうから、それだけで、全て伝えられるはずがなかった。それは、その人が生きていく中で、自然と滲み出すもので、その軌跡が描くものなのだろうから。

END

Re:Story

今日から新たにこのサイトを利用することにしました。

とりあえずは日記として使おうと思っています。

あと応募していない小説をアップする場所にもしようと思います。

 

いずれは旅ブログみたいなことをやりたいなと思っているのですが、

今はまだお金を貯める準備期間なのでカメラの練習などをしたら写真をアップしようと思っています。

けど今SDカードリーダーがないから撮った写真パソコンに送れないんだよな。

とりあえずそれ買わなきゃ。

今後の予定

4月にタイに行く予定なので、それまでに

タイについていろいろと調べなきゃって感じです。

なぜタイに行くかというと、一番仲の良い友達がタイへ転勤になってしまったからです。

 

それまでにカメラの練習をして、お金を貯めて、

旅行の計画を練ろうと考えています。

 

また、旅をしながら生きるために

ウェブライターでなんとか生計を立てようと

今、ほんと昨日あたりから行動し始めました。

 

どれぐらいの収入になるのか、自分がどれくらい書けるのか

まだわからないのでなんとも言えませんが、

とりあえずやってみてダメなら他の道を探します。

 

だから2019年は準備期間になるのかな。

今応募してる小説が賞をとってくれたらいいんだけどなあ。

まあ、あまり期待せず、コツコツ積み上げる一年にしよう。

ももクロが好きです。

ライブ行きたいなあ。

新しい景色が見られますように。

I wanna be free